安藤昌益思想与明清新儒学的比较研究;安藤昌益の思想と明清新儒学との比較研究毕业论文

 2021-04-01 11:04

摘 要

封建社会向近代转换的时期总是新思想较为活跃的时期,日本江户时代的思想家安藤昌益以及中国明末清初的思想家王夫之、黄宗羲,这三人的思想便都是具有反抗意识的新思想。其思想由于时代背景类似,有着诸多的相同点,又因为中日两国的国情及三人所属社会地位的不同,也有着很多不同点。本论文通过比较研究,能使我们更深层次理解各方面因素对社会思潮的影响,并期冀为思想发展轨迹研究提供借鉴。

关键词:安藤昌益 王夫之 黄宗羲 气一元论 民本思想

目 次

  1. はじめに 1
  2. 時代背景の比較 3
    1. 安藤昌益の生涯と活躍していた江戸時代 3
    2. 王夫之と黄宗義の生涯と活躍していた明末清初 4
    3. 社会環境の類似点 5
  3. 思想の比較 7
    1. 安藤昌益の主な思想 7
      1. 弁証唯物論 7
      2. 「法世」思想 9
    2. 王夫之の気一元論 10
    3. 黄宗義の民本思想 11

3.4 比較 12

  1. 終わりに 14

参考文献 15

謝辞 16

はじめに

歴史の中で、面白い現象が一つある。ほぼ同じ時代に、遠く離れているにも関わらず、東洋と西洋はよく生涯が似ている偉い人物が誕生すると言われる。例えば、古代ギリシャの思想家であるソクラテスと古代中国の「至聖先師」と呼ばれる孔子と、活躍していた時代はわずか 100 年ぐらいの差しかない。この二人は共に奴隷時代の末期に生まれ、今になっては、それぞれ自分の国において、数多くの分野に大きな影響を与えている。なぜこのような現象があるのかというと、「時勢が英雄をつくる」のことわざがまさにこれを解釈していると考えられる。

マルクスの唯物史観によると、人間社会は土台である経済の仕組みにより、それ以外の社会的の側面(法律的、政治的上部構造及び社会的諸意識形態)が基本的に規定されると考えられる。

中国と日本はもちろん、距離が近くて交流が多い隣邦であって、社会発展が互いに影響を交わしている。したがって、そんな人物らがより多くいるはずであろう。安藤昌益と黄宗義と王夫之と、それらの三人はそれぞれ日本と中国の封建時代の末期に生活していて、年代にもさほどの差がない。安藤昌益は日本十八世紀の傑出した思想家と見られ、彼の政治学説には強烈な反封建主義色彩が含まれる。それに、ほぼ同じ時代(17 世紀)の中国にも、顧炎武と「明末三大思想家」と並び呼ばれる黄宗義と王夫之も社会が激しく変革した際に、社会思想を改めようと考えて、多くの人本観点を提出した。彼らの思想は昌益と同じ、君主専制に対し、強く反対を示した。この三人は生活した社会環境から見ると類似点が数多くあって、思想面もよく似ていると考えられる。

安藤昌益は江戸時代における社会的な権威者にとっては危険な人物であるが、当時、彼を知る人はそれほど多くいない。安藤昌益に対する研究が始まったのは 1899 年、狩野亨吉が彼の著作を再発見した時からである。後に、駐日カナタ大使である H・ノーマンの『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』が発表されたことで、研究はブームとなったのである。

王夫之と黄宗義は二人とも当時の有名な学者であるゆえに、彼らへの研究は同時代から多くあった。近代以来、彼らの思想には先進的なものが含まれているため、再び世間に正視された。

しかし、日本も中国もこの三人についての研究は数多くあるが、この三人を比較して、研究した先例は少ない。

本論文ではこれらの類似点に基づき、文献分析法を利用し、当時の社会環境が社会思潮へどんな影響に与えていたかを探り、その環境において、先進的な思想家らが変革を求め、自分なりの思想の道を探した姿を展示したい。今後の社会思想の進路の方向に少しまたは激励面に多少啓発し導いたら、ありがたいと考える。

時代背景の比較

安藤昌益の生涯と活躍していた江戸時代

安藤昌益は江戸時代に有名な反封建思想家、破格的な人物で、まるで謎のような存在である。現在、昌益の生涯を詳しく知ることは難しいようである。幸いなことに、数多くの先行研究の努力で、彼の生涯については大抵把握できた。安藤昌益は元禄 16 年(1703 年)に秋田藩比内二井田(現在の秋田大館市)の農家に生まれ、あと奥州八戸に移住し、医を業としながら自分の思想を打ち立てていた。その思想に共鳴する者に遠くから訪ねられて師事させたこともあったことも確認されている。1762 年に実家で病没してから、約 100 年ぐの時間にわたって、彼はまるで「忘れられた思想家」になった。明治 32 年頃、日本思想家、狩野亨吉はある古本屋で昌益の著作『自然真営道』を再発見、再評価したため、彼と彼の思想は再び世間に知られ始めている。

狩野亨吉による昌益の再発見は決して簡単なことではなかった。最初に手に入れた『自然真営道』の原稿本は全部で 100 巻 92 冊あって、「生死之巻」という巻が欠けていた。毎巻に確龍堂良中著と記し、宝暦五年に書いた自序の末に鶴間良龍と推読される書印があったため、たぶん鶴間は本名であると狩野は考えていた。最後の手段として原稿本の渋紙表紙に使用された反故紙を一々剥がしながら調べて見ると、其中から手紙の残闕が二、三発見され、その内容から本名が安藤昌益であると推定された。

それに、昌益は医者をしていたことが判明できたのは次の記録があったからである。『八戸藩政日記』では、1744 年八月、八戸郊外櫛引入幡宮にて恒例の秋の大祭に、遠野から流鏑馬を奉納にきた総奉行、射手奉行、射手三人が病気になったため

医者の安藤昌益に治療が押し付けられたという記録が残って

いた1。

安藤昌益が生活していた江戸時代は日本の封建時代の末期とされている。社会矛盾は日増しに先鋭化して、あらゆる面で危険が潜んでいた。商品経済の発展によって、商人らは急に富裕階層に成り上がた。それに対し、幕府諸藩の財

1 狩野亨吉 (1928) 『安藤昌益』 岩波講座 世界思潮 p.16

政は段々行き詰まり、武士階層は落ち触れていた。農民は封建支配者からの搾取を受けたのみならず、高利貸者からの絞り上げも避けられなかった。生活が益々苦しくなってきて蜂起するしかなかった。江戸時代のみ、農民による百姓一揆の事件は千件以上もあったとされている。昌益は一生医者をやっていて、頻繁に下層の民衆と接していた。寛延二年(1749 年)、八戸藩で発生し、3000 人以上の餓死者が出た猪飢饉も彼が自ら経験した。それ故に、彼は封建時代の貧乏な農民の生活の苦しさがよくわかっていた。これらの経験は、彼なりの思想の形成に深刻な影響を与えたと考えられる。

王夫之と黄宗義の生涯と活躍していた明末清初

王夫之と黄宗義の二人は顧炎武と一緒に「明末三大思想家」と並び呼ばれ、昌益と違って生前からすでに名を遂げ、また生後何百年も有名な思想家とされている。しかし、彼らの思想は後代の支配者に「洪水猛獣」と視され、厳重に出版禁止とされていた。それにしても、多くの後来者は彼らの思想に従って、こっそりそれらの禁書を回覧していた。

王夫之は 1619 年に湖南省の衡陽に生まれ、崇禎十五年(1642 年)には、武昌の郷試に参加して挙人となり、官界への第一歩を踏み出した。だが、その一年後、会試を受験するため、北京に赴いた時、農民反乱の激化により、科挙を諦めて故郷に帰った。明の滅亡は彼が二十六才の時ことである。李自成軍が北京を占領し、崇禎帝が自殺したということを聞いて、王夫之は数日食わず、「悲憤詩」を作り、間も無く、抗清闘争に身を投じた。永暦 4 年(1650 年)、政権内部の実情に幻滅して官職を辞任し、再び故郷に帰った。その後、思索と著述の日々を重ねて生涯を終えた。

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