物语中体现的汉文化——以紫式部的《源氏物语》为中心毕业论文

 2021-04-07 11:04

摘 要

今天,当中日两国人民友好关系日益加强,世界文化愈加相互渗透的时候。越来越多的中内外学者开始关注起日本古典文学。在日本古典文学遗产中,紫式部的長篇小说《源式物語》占有特殊的地位。这部小说不仅在思想和艺术方面有较高的成就,而且也是中日文化交流历史的光辉记录。为此研究紫式部和她的代表作品是很有意义的。笔者想通过这篇论文,使更多的人发现并了解《源氏物語》的无与伦比的艺术成就与文学美。即便是非专业人员也可以读懂它,理解之中的文化美,感慨之中的艺术美,喟叹之中的凄美爱情,加深中日之间的文化交流。此外,也可以通过研究获取更多的知识,弥补自生的不足。更加了解了中日两国的文化交流的历史,为今后中日文化交流提高做准备。

关键词:源氏物语;物哀;中日;文化

目  次

はじめに 1

1 『源氏物語』の背景と紫式部について 3

1.1 平安时代の政治と文化 3

1.2 平安时代の婚姻制度 4

1.3 平安时代の中日文化交流 5

1.4 紫式部の生平 6

2 『源氏物語』と『長恨歌』 8

2.1 白居易の「物感」と『源氏物語』の「物哀」 8

2.2 『源氏物語』中で白居易の诗句活用 10

3 『源氏物語』中での女性の描写から中国文化の影響を見る 14

3.1 相逢相失両如梦·為雨為雲今不知——葵上(政略結婚の女性) 14

3.2 蝉衣一襲余香在·睹物懐人亦可怜——空蝉(反抗意識の女性) 16

4 『源氏物語』中の「物哀」と中国の「物感」 18

4.1 「物哀」と「物感」の異同点 18

4.2 日本の「物哀」形成した原因 18

おわりに 23

参考文献 24

謝  辞 25

はじめに

日本の古典文学に言及すれば、おそらく『源氏物語』よりもっと偉大な作品がないかもしれない。平安時代中期の11世紀初頭、『竹取物語』以来の虚構性と『伊勢物語』を代表とする叙情性と『蜻蛉日記』などの内面性と『宇津保物語』に見られる写実性とを集大成した『源氏物語』が誕生した。中国長編小説の先駆け『三国志演義』などより300年ほども早かって、ダンテよりも三百年、シェクスピアよりも六百年、ゲーテよりも八百年ばかり前に書かれた世界文学史上の最初の長編写実小説である。女流作家紫式部によって書かれたこの作品が、『源氏の物語』、『光源氏の物語』、『紫の物語』、『紫のゆかり』などとも呼ばれる。『源氏物語』の出現は、日本文学史上において物語の頂点を示したのみならず、この画期的な傑作は世界的にも、ゆるぎない価値を認められている。

『源氏物語』は、今日ほとんど大衆化していると言えよう。近年、日本では、空前の源氏ブームが起こっているほか、中国でも、『源氏物語』の訳本が豊かになってくる。十一世紀初頭に作られた『源氏物語』がこのように大勢の人ケに愛読されてきたのは、それ自体が日本文学史の一側面を担っているからであろう。

この『源氏物語』についての研究では、文学作品として、作品の中の「物哀」という特徴がおそらく最も中心的な位置を占めて、重要な研究テーマだと思う。日本は古代から自国の独特な審美意識で世界に知られている。物哀は日本民族の重要な審美意識で、日本文化の各方面にしみ込み、深い影響を及ぼした。歴史の角度から物哀の形成した原因を探ることは、全面的に日本文化を理解することに重要な役割を果たすことだけではなく、中日文化の交流にとって、かなり意義をもっていることである。

1 『源氏物語』の背景と紫式部について

魯迅先生の話によると、「私たちある時代の文学を研究したいなら、すくなくとも作者の環境、経歴また著作が了解しなければならない。」中国語原文「我们想研究某一時代的文学,至少要知道作者的環境,経歴和著作。」。[1]同じように、『源氏物語』の世界を理解するためには、当時社会の政治、文化、風俗などを知る必要がある。物語が成立した平安時代中期はどのような時代だったのだろうか。本章では最低限押さえておかなければならないことだけを述べることにする。

1.1 平安时代の政治と文化

794(延暦13年)、桓武天皇が都を長岡京から平安京に遷してから1192年(建久3年)、源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開くまでの約400年間を中古と呼び、これが平安時代にあたる。この時代は一言で言うと、天皇を頂点とした貴族政治の時代である。奈良時代に確立した天皇中心の律令制度が崩壊し、天皇家と縁戚関係を結んだ藤原氏が独裁的に政治の実権を握る摂関政治の時代となり、11世紀初め藤原道長によってその全盛期を迎える。摂関は一の人として全廷臣の首位にたち、百官諸司を指揮して国政を領導したのであるが、この地位を根底で支えたのは天皇との外戚関係である。摂政や関白になるのは、普通、天皇の母方の祖父や叔父である。藤原氏によって確立された摂関政治の中において、娘を持つことは、権力を握るための第一歩であった。自分の娘を皇后にして、自分の摂関の立場を得たのである。

外戚中心の摂関政治は後宮の重要性を高め、後宮で后のもとに仕える女性も多くなった。彼女たちは受領などになった中流貴族の娘が多く、文学に自己表現の場を求めて女流文学を興隆させた。たとえば、一条天皇の中宮、道隆の娘定子と道長の娘彰子の周りに、文学サロンがあった。そこで活躍していた清少納言、紫式部、和泉式部などの女流文学者たちが、后の教育係をしながら、優れた作品を後世に残した。

この間、遣唐使の派遣が中止されてから、それまでの唐風文化に代わって日本人の生活や習慣、精神に適した日本独自の文化である国風文化が形成された。詩歌・管弦・服飾・寝殿造といった建築や絵巻物などの美術などあらゆるものが王朝的な優美に飾られ、様々な分野にわたって絢爛豪華な貴族文化の繁栄をみることができる。そのなかでも国風化初期における仮名文字の発明は文学の発達に大きな貢献をもたらした。「かな」は漢文と違って国語の持つ感覚を自由に表現することができ、『万葉集』で使われている「万葉仮名」[2]に比べてはるかに簡単であった。そのため、「かな」によってはじめて日本人の感情を自由に表現できる文学として、和歌・物語・日記・随筆などの国文学が発展したのである。平仮名は優雅な書体であり、また表音文字であるため、平安女流文化の自由な表現を積極的に促した。

1.2 平安时代の婚姻制度

平安時代の婚姻形態が同時の政治や文学に大きな影響を与えた。それについて、藤原朝を上げて分析したいと思う。藤原氏が九世紀から天皇の外戚となって、権力を掌握し、他の有力貴族を排除して勢力を拡大していき、十世紀後半には天皇の幼少時代には摂政、天皇が成人した後は関白となって政治の代行するという摂関政治を確立させた。その間の歴史から見ると、藤原氏が権力を獲得する方法は外戚の地位を利用することである。つまり、藤原氏は娘の入内と外孫の即位に通じて、権力を握ったのである。なぜ母方の祖父の力は強いのかというと、それは当時の婚姻形態のためである。

1.3 平安时代の中日文化交流

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