摘 要
夏目漱石(1867-1916),本名,夏目金之助,出生于江户的牛迂马场下横町(今东京都新宿区喜久井町)。1905年发表了《我是猫》,从而确立了他在文坛的地位。此外,他还著有《草枕》、《三四郎》、《其后》、《门》和《心》等作品,是日本的小说家、评论家、英国文学家。
本论文是以旅行的见闻为中心,对夏目漱石的精神世界进行了分析。
文中一扫8年前留学英国备受歧视的阴霾心情,也一改为中国人辩护的客观立场,在游记中说了不少中国人的坏话。
对于战争的真实伤亡情况,是只因一味报功的军部不愿公开的试试。因此在报上连载时受到冷遇,写了一半就中断,也是完全可以理解的。
这部游记可以说既未受到日本舆论好评,而且因为其歧视中国人的描写,在战后也备受中日评论家的批评。当然,也有站在他的立场上为之辩护的。但主要还是批评意见占了多数。可以说是他所有作品中最不成功的一部了。
关键词:夏目漱石 南满铁路沿线 满洲 散文
要 旨
夏目漱石(1867-1916)は、本名、夏目金之助、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。1905年『吾輩は猫である』で文名があがる。他に『草枕』『三四郎』『それから』『門』『心』等。日本の小説家、評論家、英文学者である。
本論文は旅行見聞の分析を中心に、夏目漱石の精神世界について分析する。
だが、漱石は、戦争の性質に疑問を持ち、批判な態度を持っている。8年前英国留学した時に受けた軽蔑の憂鬱から解き放されただけではなく、中国人を弁解する立場を変えて、旅行記に中国の「悪口」も結構書いている。
日露戦争における死傷者の状況について、軍部が一番公表したくない事実である。そのため、旅行記は大変冷遇され、連載途中で中止されるのを理解できないわけではない。
この旅行記は日本においてあまり好評を受けていない。さらに、中国人を軽蔑する描写もあるので、戦後中日評論家にも批判されていた。無論、漱石の立場に立って、彼を弁解する人もいるが、批判意見が多半数を占めている。こう考えれば、『満韓ところどころ』は、彼の作品の中で一番成功ではない作品だと言えるだろう。
キーワード:夏目漱石 南満鉄路沿線 日露戦争 批判
目 次
はじめに ……………………………………………………………………………1
- 夏目漱石について…………………………………………………………2
- 『満韓ところどころ』について…………………………………………4
- 創作背景 ……………………………………………………………4
- あらすじ ……………………………………………………………5
- 『満韓ところどころ』における夏目漱石の明治精神……………………………6
- 漱石と漱石の明治精神……………………6
- 漱石のナショナリズム……………………7
おわりに ……………………………………………………………………………9
参考文献 …………………………………………………………………………10
はじめに
戦時、中国の東北三省と日本と緊密な関係を研究したとき、夏目漱石の友達である中村是公は南満鉄道会社の総裁であったことがわかった。夏目漱石がその友達に誘われて、満州へ行った。それは『満韓ところどころ』の誕生のきっかけであった。
漱石は近代日本の国家主義の罪過をおおむね冷静に認識し、それを批判する視点を持っていた作家である。
『満韓ところどころ』-作品は日本近代文学家夏目漱石が中国の旅行見聞を描写する。この本の中で、1090年9月2日から彼は南満鉄路沿線の印象を記録する。戦争後日本は計画的に進めることが満州に侵略すると殖民する。全部の過程を如実に反映されている。夏目漱石が描いたの中は極めて散文的な相貌を呈している。
日本では夏目漱石は反自然主義文学の優秀な代表人物である。国内の研究の視角の単一化であるのに対して、日本の研究は幅広くされている。主に論文のテーマや遊記の連載の中断などについて研究されている。研究者はいろいろな日本人の中国遊記と比較して、日本国内の政冶情勢の不安を分析した。その分析を通して日本人の民族偏見と中国人に対する差別をはっきりした。
第一章 夏目漱石について
夏目漱石は日本の小説家、評論家、英文学者である。江戸の牛込馬場下横町に、名主の小兵衛直克と千枝の五男三女の末子として生まれた。生後すぐに里子、また養子に出されるなど孤独な幼少年期を過ごした。中学は三年で退学し、二松学舎で儒教的倫理観や東洋的美意識の素養を培った。大学で正岡子規との交遊を深め、子規の『七草集』に漢文評を加え、漱石と署名している。23歳で帝大(東大)英文科に入学する。卒業後、明治28年に四国の松山中学に赴任。子規らとの親交を深め、句作に熱中した。翌年、熊本高度学校に転任、四年後、イギリスへ留学に行く。留学費不足のため、肉体的劣等感から来る孤独もあいまって。人間不信に陥り、極度の精神衰弱に悩まされる。3年後「自己本位」の確立を自覚した漱石は帰国した。帰国後の漱石は一高と東京帝大の講師となった。明治38年から翌年にかけて『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を発表し、文壇にデビューする。その後、松山時代の体験から『坊っちゃん』、超俗の世界に「非人情」に美学を追求した『草枕』に至って、作家としての地位を固めた。主流だった自然主義の即物性や無思想性に反発し、人生の「苦」の部分に目を向けるのではなく、人生を余裕を持って眺めようとする文学の態度をとり、余裕派、或いは高踏派と称えされた。作家の専念するため、東大の教授の話を断り、朝日新聞社の専属作家となる。第一回の作品として『虞美人草』を発表以来、前期さん部作と呼ばれる『三四郎』、『それから』、『門』などを次々に新聞に連載した。『修善寺の大患』後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。
日本人が作った漢詩の中には平仄が合っていても中国語での声調まで意識していないものもあるため、中国語で吟じられた場合には優れた漢詩とされにくい場合がある。しかし、漱石の漢詩は中国語で吟じられても美しいとされる。長編小説のほか、『文鳥』『永日小品』などの短編や俳句・漢詩の秀作もある。
第二章 『満韓ところどころ』の創作背景とあらすじ
第一節 創作背景
外からの衝撃からははじまったわが国の文明化は、その性急さにもかかわらず,政治·経済的には相当な成功をおさめた。国家統一、富国強兵、和魂洋才による西欧先進文明の摂取、教育の普及、そして日清日露戦役の勝利、領土拡張、満州経営など、1867年に生を稟けた漱石が1916年その生涯をおえるまでは、どうにもならぬ破綻というものはまだ見せていなかった。むろんその間には、漱石がほとんどすべの作品の中で糾弾してやまなかった、資本主義形成に伴う拝金主義、後年の彼を悩ませる封建的家族制度の法にようる強制と永久化、あるいは強くは漱石の意識にはのばらなかった自由民権運動の抑圧に始まる一連の矛盾などが、数多くはらまれてはいた。しかしともあれ、日本はアジアにのける唯一の近代国家を形成しえていたのだった。
漱石の生涯は英文学研究を通じてのヨーロッパ精神との対面によって、近代的自我の確立をはかることにはじまり、そして一応形成されたその近代的自覚と日本的社会、日本的日常との葛藤の上に、自分の文学を築くことについされたといってよい。そして彼の文学が近代文学として確立されてゆく過程は、不幸にも作品の中では先取的なインテリの近代精神がさまざまな障害につきあたって崩壊してゆく悲劇の深まりに重なるのである。
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