摘 要
中文摘要
本论文基于至今为止的研究成果,通过比较所收集的例句并分析考察其构成与意义,对中日自动词被动句进行了比较分析,并得到了如下结果。
在结构上,可以通过后续有无表达结果的成分来判定其异同。
在意义上,中日自动词被动句都表达了一种受害被动的意义,但中文中还有对具体情况进行强调的自动词被动句。另外,中文中新出现的“被 XX”句式也可以构成自动词被动句,但它的实际意义是一种他动词被动并且具有实际上的否定意义。以上两种用法都尚未在日文中找到相应的句式。日文中与“来”有关的自动词被动句在中文中也难以找到相应的通顺的说法,这与中日间不同的距离意识以及中文中“来”所具有的不同意义有关。
关键词:中日;自动词;被动;比较;“被 XX”
目 次
- はじめに 6
- 先行研究 7
- 日本語における自動詞受身文について 7
- 中国語における自動詞受身文について 7
- 比較分析 10
- 構文から見る異同点 10
- 意味から見る異同点 11
- 強調型自動詞受身文 14
- “被 XX”型自動詞受身文 15
- おわりに 19
参考文献 20
謝 辞 22
はじめに
自動詞受身文が日本語の特徴の一つであると言えるだろう。今までに多くの学者がそれについて研究し、その使用実態を解明しようとしてきた。例えば:
- 私は買い物の途中で雨に降られた。(日本語記述文法研究会 2009:215)
- 佐藤さんは奥さんに死なれてから、ふさぎこんでいる。(日本語記述文法研究会 2009:237)
例(1)(2)の中の動詞「降る」と「死ぬ」はいずれも自動詞であり、受け身のマーカー「(ニ)…ラレル」も存在し、文は主語の「私」、「佐藤さん」が「雨が降る」、「奥さんが死ぬ」という行為のよくない影響を受けた。例(1)(2)のように、日本語における自動詞受身文は被害の意味を含むのが殆どである。
日本語を勉強するとき、受身文は中国人にとって難点の一つと言えよう。中日両語における品詞の異なりとあいまって学習者を困惑させることが多く、そして学習者は中国語に自動詞受身文がないと思いがちである。だが、近年学者たちの中国語における自動詞受身文についての研究から見ると、中国語にも自動詞受身文が存在するということが分かった。例えば:
- 整个心灵被年轻人的狂热的幻想陶醉了。(杨沫《青春之歌》)2
- 人们的眼睛都被一种莫名其妙的困惑苦恼着。(矛盾《霜叶红似二月花》)
3
例(3)(4)の中の動詞“陶醉”と“苦恼”はいずれも自動詞であり、受け身マーカー“被”も存在し、文は隠れた主語“我”と“人们”が“年轻人的狂热幻想”、“一种莫名其妙的苦恼”という影響を受けた。これは中国語に自動詞受身文があるということを証明している。だが、中国語の自動詞受身文にはほかの形もあるはずであり、同時にすべての自動詞がそういう受身文を構成できるとも限らない。また、ここ数年、中国語に新しい自動詞受身文が現れ、例えば
“被结婚”、“被自杀”などの“被 XX”文も研究する価値がある。本稿も自動詞の視点から中日両語における受身文の構文と意味を考察してみる。
2 例文の出典は李金莲,日汉自动词被动句对比分析[A],中国海洋大学学报,2012,第 4 期である。
3 例文の出典は李金莲,日汉自动词被动句对比分析[A],中国海洋大学学报,2012,第 4 期である。
先行研究
日本語における自動詞受身文について
久野暲(1986)、中島悦子(2007)などの学者たちは、日本語の被害の意味を含む受身文は主語が意味的には中立的な補文からその事態のよくない影響を被られるということを表すと考えている。例えば:
- 山田は花子にアパートに来られた。(久野暲 1986)
久野暲(1986)は例(5)の組み立てを「山田は(花子がアパートに来る)られた。」とみてもいいと説明している。意味的には、山田は花子がアパートに来るという行為のマイナスな影響を受けたということである。
日本語の自動詞受身文に関する焦点はこのような受身文をどう名付けるのかということに集中しているようである。今までの研究では、「第三者の受身」
(铃木重幸 1972、铃木康之 1977)、「間接受身)」(山田孝雄 1908、三上章
1972、叶青 2003)、「被害受身文」(久野暲 1983)、「事象叙述受動文」(益
冈隆志 2000)と「自動詞の受身」(中島悦子 2007)などの呼び方がある。
中国語における自動詞受身文について
中国語にも自動詞受身文が存在しているが、数が少なく、自動詞受身文に使える動詞も限られている。
木村裕章(1981、1992)は結果表現が受身文の成立に必要であると指摘した。既に広く言われている。
楊凱栄(1992)は一部の自動詞に副詞“这么一(こうして)”を付加することにより、その自動詞受身文を成立させることができると論じたが、邱林燕(2013) は“这么一(こうして)”が自動詞受身文の成立条件になれないと指摘した。例えば、
- *夜里很晚的时候被客人来了。
(夜遅くお客さんに来られた。)
- *夜里很晚的时候被客人来了,害得我没休息好。
(夜遅くお客さんに来られた。そのため、ちゃんと休めなかった。)
- *夜里很晚的时候客人来了,害得我没休息好。
(夜遅くお客さんが来た。そのため、私はちゃんと休めなかった。)
- 夜里很晚的时候被客人这么一来,害得我没休息好。
(夜遅くお客さんにこうして来られて、ちゃんと休めなかった。) 例(6)(7)(8)(9)のように、“这么一(こうして)”の付けた例(9)が一番適当な
言い方に見えるが、例(9)は“夜里很晚的时候被客人这么一来”だけであれば、文自体が不十分になり、後に行為による結果を表す文を付けなければならない。しかし、そうすると、“这么一(こうして)”を付けることで成立された自動 受身文は原文の従属節になってしまう。しかも、このような文に、“被”を用 いる必要がなく、“这么一(こうして)”だけでも十分である。例えば、
- a.夜里很晚的时候客人这么一来,害得我没休息好。
(夜遅くお客さんがこうして来て、私はちゃんと休めなかった。)
- *夜里很晚的时候客人这么一来。
(夜遅くお客さんがこうして来た。)
従って、“这么一(こうして)”の使われた自動詞受身文もただその受身文を原文の条件背景にしてしまい、“这么一(こうして)”が自動詞受身文の成立条件であるとは言えない。
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