摘 要
日本的语言文化渊源深厚,其语言中所蕴藏的日本文化是国内外日语研究者的研究重点。本文以日语的“疑问表达”为主要研究对象,对“疑问表达”进行了具体界定,并从“疑问表达”的形式和说话人的基本意思为出发点,研究日语中体现的“耻意识”,为日语学习者能够更好的理解和学习日语提供参考。
关键词:疑问表达 耻意识 日本文化
目次
はじめに 6
0.1問題提起 6
0.2研究目的 6
0.3先行研究 6
第一章 日本文化における「恥意識」 8
1.1「恥意識」の定義 8
1.2「恥意識」の表現 9
第二章 日本語における「疑問表現」 10
2.1 「疑問表現」とは 10
2.2「疑問表現」の種類 10
第三章「恥意識」への褒美としての「疑問表現」 12
おわりに 15
参考文献 16
謝 辞 17
はじめに
0.1問題提起
言語とは人間に固有な意思伝達手段であり、社会集団内で形成習得され、意思の相互伝達と抽象的思考を可能にし、社会、文化活動を支えるものといわれる。そのため、本稿は日本語の様々な「疑問表現」をまとめ、その成因及び対策を探求し、「疑問表現」の日本人の「恥意識」に強くもたらした影響をよく理解しようと思っている。
0.2研究目的
日本語の「疑問表現」は多様性があり、話し手の多種多様な表現心理が反応されているといえる。本稿は日本語の「疑問表現」の定義を明らかにし、日本人の「恥意識」と「疑問表現」のかかわりを探究してみよう。
具体に、日本語の「疑問表現」と日本人の「恥意識」の定義を明らかにする。それから、「疑問表現」に隠れた「恥意識」を分析する。最後、「疑問表現」と「恥意識」との関係を探求するという手順である。
0.3先行研究
日本は恥を知って極度に敏感な民族の恥民族なのである。日本文化の重要な構成部分である「恥意識」は日正常な社交礼儀や文学や言語に良い体現を得た。2009年に日本人の学者丸尾の『恥辱と回復―「叫び」と「野草〉』は中国語で出版された。その著作では、丸尾が日本文化の中の「恥意識」を導入した。しかも、「恥意識」をほぼ二つの意識とまとめることができると指摘した。一つは、人間が欠陥のある自分を超えたがり、自分が超えた時に反映された未超越の心配と緊張である。孫上林は日本神話である『古事記』に体現される「恥意識」を分析し、「恥意識」とは、日本社会の基本構造と歴史の伝承にともなって形成したと指摘している。
韩立红は日本人の「恥」は誰でも社会の中で自分の行動の評価を十分に注意している標準といえる。宮崎和人は『現代日本語の疑問表現 ―疑いと確認要求―』[1]では、モダリティ研究の一環としての疑問文に対して研究をした。「疑問文」をいくつかの種類に分けられている。
わたしの知っているように、日本語の疑問表現は恥意識に深く関係していて、疑問表現の方式から恥の意識の存在が見抜くことができるが、この関係はこれまでの研究ではうまく説明しなかったと思う。
第一章 日本文化における「恥意識」
1.1「恥意識」の定義
人間は恥を知っている唯一の動物だといわれることがある。その場合、恥というのは、人前で恥ずかしい思いをするという、単なる感情体験をさすのではない。むしろその恥じらいの体験をもとにして、その後における自分の行為を方向づけるモラルなのである。
元来「恥意識」という感情は、目だった行為をしたり皆の前で失敗をしたりしたとき、あるいは自己の欠点が醜いと思っている容姿が指摘されたときにおこる。前者では、その行為によって自分に対する評価が下がるかもしれないことを恐れているのであり、後者では、他人に対する自己の劣位が知られることになる。いずれにせよ、自分についての自己評価が、他者との関係のなかで相対的に低下するとき、恥ずかしいという気持ちがおこるのである。いいかえれば、恥ずかしさというものは、当人の自尊心が対人関係のなかで損なわれるような状況で生じる。要するに、このような羞恥心は、人の笑いものになったり、世評が悪くなることを心配する気持ちと結び付いており、したがって、人の目による批評は、社会的な行為を方向づけるうえで大きな規制力をもつことになる。そこで、恥ずかしいという感情は、人のうわさや嘲笑を恐れるという「恥」の意識に転化される。
アメリカの文化人類学者ベネディクトは、次のように述べている。「恥は、他の人々の批評に対する反応である。他人から公然とあざけ笑われ、値打ちがないといわれるか、あるいは、あざけられたと思い込むか、そのいずれかによって、人は恥辱を被る。どちらの場合でも、恥はよく効く道徳的拘束となる[2]。だが、それには、実際に人前のことであるか、それとも少なくとも人前でのことだと思い込むか、といった条件が必要である」。つまり、周りの他人を想定し、その嘲笑(本人にとっては恥)を回避しようとするわけだが、それは、「自己の行動に対する世評に気を配るということ」であり、したがって、「他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める」ことだ、とベネディクトはいうことである。
1.2「恥意識」の表現
ビアンカが日本語の場合、なるべく断定的な書き方は避けようという無意識の力が働いているというコメントをした。断定的な書き方を避けようとするというのも、日本人の典型的な「恥意識」の例といえる。
物事を断定するというのは、とりもなおさず「私」の見解を表明することである。そのとき、その見解をなす「私」を前面に引き上げることは無論であろう。しかし、「恥の文化」である日本では、「私」を前面に押し出すことには「恥ずかしい」という感情が伴うため、自ずとそこに躊躇いが生じ、断定的な表現は避けられるようになってくる。断定的に述べられる事柄に対しても、「と思ってもいいですか」、「と考えてくれませんか」、「と思いませんか」などという語句がついたり、「疑問表現」が多く用いられることは普通なようである。つまり、自分の考えを婉曲的に表しがちだと考えられる。
日本語や日本文化の伝承は民族の心理の密接に関連している。例えば、古代日本では、武士道の倫理の道を求め、各レベルの間の人はそれぞれ職責を尽くし、各守本分を越えることができず、もし越えれば、恥のように感じられる。また、江戸幕府期では、武士の高尚な「道徳」を維持したい場合、普段の生活においても、人と人との付き合いにおいても、言語の使用にも慎重な態度がとられていた。「恥意識」はこのような背景に形成され、直接表現の代わりに、日本語の婉曲表現や曖昧表現や疑問表現など出てきた。つまり、日本人が会話中婉曲な態度を維持しつつ、言葉遣いに注意する。例えば、婉曲表現や肯定か否定の疑問文を使うことによって、「恥意識」の体現がされる。
第二章 日本語における「疑問表現」
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