汉字在日本的传入和发展毕业论文

 2021-04-02 10:04

摘 要

汉字传入日本对日本语言文字发展产生了极其深远的影响。

本文从三个方面分别阐述了自己的观点。一是中国汉字传入日本的过程及其在音、形、义上的变化、发展。二是日本自身汉字的创造。三是近代中国和日本关于文字的交流。最终认为汉字本身的价值使其构成了日本历史文化的一个重要部分。汉字在日本随着社会历史的发展也在进行着不断的改革。就日语语言的发展与使用的研究,无论是过去还是现在,都无法忽视汉字对日本文字的形成与发展乃至日本文化的发展所起的推动作用。

关键词:文字历史;改革;体系建立;发展

目  次

はじめに 1

1 中国の漢字の日本へ伝えた過程と影響 2

1.1 漢字の伝入 2

1.2 漢字は日本語のかな文字に対する影響 3

1.3 日本の「国字改革」 5

2 漢字の日本での変遷と本土化 7

2.1 文字の発音 7

2.2 文字の形 10

2.3 文字の意味 10

2.4 日本に製造された漢字の由来と意味 11

3 近現代中国と日本は文字についての交流 13

3.1 近現代漢字は日本についての作用 13

3.2 近現代中国と日本は文字についての交流の活動 10

おわりに 15

参考文献 16

謝  辞 17

はじめに

漢字はもとが中国の文字ではあるけれども、しかし地理条件などの多い方面であるから、漢字は朝鮮を経て日本に入って来て、日本語の文字を記録しただけではなくて、その上日本の文字を創造するの基礎になった。日本の言葉と日本の漢字の主の部分を構成する。日本は漢字を吸収し、漢字で文章を書き、漢字で日本語の特殊な語彙を表示し、日本語の語順で漢字を使って、万葉のかな、平らなとカタカナ、中国語と日本語を混合しての文体を書くの段階を体験した。最初の時に日本は自分の文字がないから今までの自分の文字体系と中日を混合しての文体を創造するの段階になった。全面的に漢字を導入し、漢字を習い、また日本の元からある言葉によってそれを消化して再び創造した過程である。漢字は日本での本土化の発展過程は日本文化に対して重要で深遠な影響が出た。

1 中国の漢字の日本へ伝えた過程と影響

1.1 漢字の伝入

漢字は一方では漢の文化を記録して、一方では時代の発展につれて絶えずに調整する。漢字は大体紀元前1300年の頃に中国語を表記するため古代中国に発祥をもつ文字である。古代の日本には日本語があったが、それは話し言葉だけで、表記法は何もなかった。

漢字は何時、日本に来たのであろうか。記録上に存在しているのは「古事記」の応神天皇記に記載が有る。ただし、この記載が日本書紀と時期的に異なるので注意が必要である。古事記は照古王(近肖古王)の時期と書かれているが、日本書紀に該当する記述は阿花(アカ)王の時代に相当する。しかし、もっと以前に漢字は伝来されたと推測している。漢字が一体いつ日本に入って来たのは、私達には定説がない。「後漢の本」によって記載して、西暦紀元57年の時に、漢光武帝劉ショー様が日本に日本へ「漢委奴国王」[1]と彫られた金印を贈ったことから、従属関係を通ってこの時期に中国政府の文字がすでに日本に伝入すると説明した。「史記」によれば、秦始皇帝28年(219年)には徐福が日本へ渡った。また、三国時代には日本の邪馬台国が4回に渡って使節を魏に送り、魏もこれに応え、二回にわたり使者を送っていた。晋の武帝太康5年(285年)、百済の王仁が「論語」と「千字文」を朝鮮半島経由で日本に伝えた。唐時代、中日文化の交流が盛んになって、日本の推古天皇が630年からその後、遣隋使を派遣、使節以外多くの「游学生」和「游学僧」がある、200年余りにわたり仏教文化や中国律令制などを積極的に吸収し、政府の付き合いと民間の貿易、文化の交流が中日の文化交流を促進した。持統天皇は、唐から続守言を音博士として招き、漢音普及に努めた。また、桓武天皇は延暦11年(792年)、漢音奨励の勅を出し、大学寮で儒学をまなぶ学生には漢音の学習が義務づけられ、また仏教においても僧侶の試験に際して音博士が経典読誦の一句半偈を精査することが行われ、また漢音を学ばぬ僧には中国への渡航が許されなかった。いろいろな交流の結果は、大量の漢字が日本へ輸入された。日本からの遣唐使吉備真備は漢字の偏と部首を参照して、日本語のカタカナを作った。それから、留学僧空海が漢字の草体を利用して、日本語の平仮名を創立したという伝説も生じた。そして、日本が自分の文字をもった。古代において漢字は中国から日本へ伝えられ、その形態•機能を利用して日本語の表記にも使われることとなる。そこで日本人は、この便利なものをさっそく取り入れた。この元の中国漢字は、日本の漢字の一つになる。これにより「日本語」というものがもうすでに存在する。

文字をもったことにより、文化の伝達に大いに役立ち、また種々の文化の伝播がさらに文字の発展を促進した。

1.2 漢字は日本語のかな文字に対する影響

漢字は日本に入って来た後、日本の言葉と文字の発展の歴史によって深遠な影響が出た。日本は直接漢字を使っていた時期にも、漢字を借りていた時期にも、日本人の思考能力、問題を理解する能力と方法も高められていた。そしてこの基礎で、日本の文字が創造された。 

日本語は漢字を借りて、三種類の方式がある。[2]一は形、音、義がすべて借りる段階である。二は「万葉仮名」の段階である。三は「ひらがな」と「カタカナ」の段階である。 日本は漢字を使ったの初期に、形、音、義がすべて借りた、漢字で文章を書いてまねた。しかし漢字で彼らの思想を表現しにくいため、すぐ「万葉仮名」が現れた。「万葉仮名」は一つの単語あるいは一つのセンテンスはいくつかのシラブルで表現した。たとえば:「山」、その時に「万葉仮名」が「也麻」で書いた。これは古代の日本人が漢の文化、漢字に尊ぶことを反映して、形、音、義がすべて借りていた段階に比べて、日本人の漢字文化が更に進歩した。

次は「ひらがな」と「カタカナ」の段階である。空海が平仮名を創作したという伝承があるが、これは俗説に過ぎない。平仮名の元となったのは、楷書ないし行書で表現される万葉仮名である。「あ」は「安」、「い」は「以」に由来するように、万葉仮名として使用されていた漢字の草体化が極まって、ついに元となる漢字の草書体から独立したものが平仮名と言える。貴族社会における平仮名は私的な場かあるいは女性によって用いられるものとされ、女流文学が平仮名で書かれた以外にも、和歌、消息などには性別を問わず平仮名を用いていた。そのため女手とも呼ばれた。ちなみに平安時代の貴族の女性は、平仮名を使って多くの作品を残した。しかし、その作者の本名は未だにほとんど分かっていない。例えば、平仮名による最初期の文学作品である紀貫之の作品「土佐日記」は、かつては作者が女性であるという前提に立って書かれているといわれていたが、2006年(平成18年)に小松英雄が行った検証によると、この日記は女性に仮託したものではなく、冒頭の一節は「漢字ではなく、仮名文字で書いてみよう」という表明し、仮名の特性を活かした技法で巧みに表現したものであるという。平仮名で書かれたものは、漢文のものより地位が低く見られていたが、中国との公的交流が絶えて長くなるにつれて、勅撰の和歌集に用いられるまでに進出した。

「カタカナ」は仏道からのものである、「ひらがな」と異なって、文章を書くの需要からではなくて、お経を読み方で読んで、すなわち注音などをする、そのため文字の性質から補助的な文字と言う。カタカナは日本語の表記に用いられる音節文字である。仮名の一種で、万葉仮名を起源として成立した。元となる漢字の画数に応じて、万葉仮名をそのまま用いたり、その一部を採るなどして作られていた。吉備真備が片仮名を創作したという伝承があるが、これは俗説に過ぎない。

1.3 日本の「国字改革」[3]

日本の文字システムを確立したプロセスは:外国の文字全部を引用し→漢字を使って音を表し→それから9世紀の末から10世紀の初めまで、カタカナ、ひらがなはすべて独立の文字系統を形成し→最後に漢字、かな文字を混じて使うの形式を形成した。

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