德富芦花早期的道德感情论——以《不如归》所描写的战争和伦理交错的日本社会为背景毕业论文_日语毕业论文

德富芦花早期的道德感情论——以《不如归》所描写的战争和伦理交错的日本社会为背景毕业论文

2021-04-03更新

摘 要

中文摘要

德 富 芦 花 作 为 明 治 时 期 有 名 的 小 说 家 , 其 作 品 凭 借 深 刻 分 析 和 批 判社 会 黑 暗 的 风 格 , 在 日 本 文 学 史 上 独 树 一 帜 。 凭 借 代 表 作 《 不 如 归 》 , 芦 花 一 跃 成 为 当 时 文 坛 的 焦 点 。 这 部 围 绕 海 军 少 尉 川 岛 武 男 的 出 征 和 爱妻 浪 子 的 疾 病 , 讲 述 家 庭 纠 葛 的 作 品 广 泛 地 涉 及 了 当 时 各 种 各 样 的 关 于战 争 、 道 德 和 结 核 之 类 的 社 会 问 题 , 表 达 了 芦 花 早 期 的 道 德 感 情 观 点 。

芦 花 作 家 的 一 生 大 致 可 以 分 为 两 个 时 期 , 其 前 后 道 德 观 也 有 着 很 大的 不 同 。 因 此 , 前 后 期 道 德 感 情 的 比 较 考 察 就 很 有 研 究 价 值 。

本 研 究 以 芦 花 的 早 期 道 德 感 情 为 中 心 ,联 系《 不 如 归 》作 成 的 背 景 , 将 芦 花 的 道 德 感 情 论 作 为 其 思 想 的 出 发 点 进 行 论 证 , 为 今 后 的 比 较 研 究打 下 基 础 。

关 键 词 : 不 如 归 ; 道 德 感 情 论 ; 同 情 ; 封 建 伦 理 道 德 ; 欧 化 主 义

目 次

はじめに 1

  1. 『不如帰』の時代背景 3

    1. 新思想の大荒れに席捲された日本 3
    2. 旧道徳の泥沼に陥った日本 5
    3. 侵略の野心にかられた日本 7
  2. 作中における蘆花の道徳感情の発見 9

    1. 弱者に対する同情心 9
    2. 旧道徳の擁護者への憤激 11
    3. 利に走るやつへの憎悪 14
  3. 早期の道徳感情論の成因 15

3.1 内因 15

3.2 外因 16

おわりに 18

参考文献 19

謝辞 20

はじめに

徳冨蘆花は小さい頃からキリスト教家庭に育てられ、キリスト教に敬虔する母の影響を受けたので、17 歳の時に受洗した。作家になった後、その作品が多少ともキリスト教の感化を受けて作成された。徳富家は代々郷士の家柄で親戚には傑物が多いがゆえ、蘆花もとっくに文芸に関する薫陶を受け、青年時代に多くの書物を読み漁った。そして、兄の民友社に加入したら校正、翻訳の仕事を展開していた。その時期にゲーテやユーゴーなどのヨーロッパ文学に親しみ、トルストイの『戦争と平和』を英語で読んで傾倒するようになった。その後、家族制度の悲劇を扱った家庭小説『不如帰』が高く評価され、写生文集『自然と人生』が代表作として作家の地位を確立した。

確かに森鴎外、夏目漱石ほどの知名度はないが、蘆花の『不如帰』は当時誰でも知っていたと言える。漱石の文学性が高く読みにくい作品と違い、『不如帰』は当時の家庭小説の流行っていた時勢に即応して大衆の興味に投じる題材に採り、大きな反響を得た。その後、『不如帰』は劇団新派でも公演され、旅芝居や映画にもなり、更に人気を高めた。しかし、通俗小説の『不如帰』はちっとも文学性が含まれないものではなく、逆に社会性と啓示性を兼ね備える作品と言っても過言ではない。そのため、尾崎紅葉の『金色夜叉』とともに、近代日本の二大通俗小説と称されている。

『不如帰』の粗筋は決して複雑ではない。片岡中将の愛娘浪子は実家の冷たい継母、横恋慕する千々岩、気難しい姑に苦しみながらも、男爵家の海軍少尉川島武男と結婚して幸福な結婚生活を送っていた。そのうち、結核を病み、武男が日清戦争へ出陣してしまった間に、千々岩の策略もあって姑から結核を理

由に離婚を強いられ、夫を慕いつつ死んでゆくといういわば単純な話である。しかし、小説の主旨は決してこの悲恋を惜しむのみならず、更に深意がある。戦争が人間性に対する蹂躙も義理人情に纏わる対話も封建家父長制の圧迫も、その時代の真実の映像を映し出しながら無意識に蘆花自分の道徳感情を表白する。この時期の道徳観念は蘆花の後期と比較すると大きな違いがある。晩年の蘆花は道徳によって国を治めるという空想的ユートピア理論にずっと心酔していた。ただし、人道主義の事業に貢献することも否めない事実である。

本研究では、『不如帰』の行間からその時代の特徴を細かく考証し、蘆花の早期の道徳感情論を解明しようとする。

1 『不如帰』の時代背景

    1. 新思想の大荒れに席捲された日本社会

『不如帰』は日清戦争を背景に書かれた時代小説であると言える。作中の人物・事件が実在のモデルを下敷きにして脚色されたので、蘆花の意図と主要人物の人間像を理解するためにその時代の全体像を思い知らなければならないと思う。

明治維新以後の日本はレールから政治体制まで西洋諸国に学ばないことはなかった。軍事的にも、経済的にも国家の富強を致すのが西洋の制度や技術など全般的にそのまま取り入れては一旦いいと思っていたが、国民思想の強盛はいくらこのような拙劣な模倣でも実現できなく、更に日本人の思想の根に応じたやり方をしなければならない。そのため、日本は長い間の模索を始めた。

1872 年に、日本の最初の近代的学校制度を定めた「学制」は発布され、儒教思想を批判しつつ西洋の教育体制・道徳思想を導入し、個人的な知識・技術の習得が重視され、いい効果を収めた。それから、1875 年福沢諭吉の『文明論之概略』が発表された後、西洋の先進技術を学ぶべきであるという主張は当時の社会を揺さぶり、日本の文明開化の動きを速めた。そして、明六社の結成のゆえに、啓蒙活動が活発になった。国会期成同盟を主体として新興の自由民権運動が矢継ぎ早に行われたと同時に、欧化主義も盛行していた。具体的に言えば、フェミニズムの方面に明治維新から女性解放政策が進み、女学校が設立されたなどのことが徐々に出てきた。婦人の地位が初歩的に確立されたということは欧化政策の益と思われる。

しかし、この欧化思潮には、日本社会に裨益をもたらすところにもかかわらず、害悪を招くこともあった。その間に明治政府は切実に日本の低い国際的地位を改めるために、手段を選ぶ余裕さえもなく過激な欧化政策を採った。この欧化思潮には鹿鳴館がその代表的な存在として論議を呼んでしまった。鹿鳴館は国賓や外国の外交官を接待し、不平等条約の改正交渉のため、明治政府によって外国との社交場として建てられた社交場である。この「鹿鳴館外交」は欧米諸国の日本に対する態度が変わらなく、かえってその滑稽な猿真似が内外の笑い種になってしまった。そのため、鹿鳴館での行事を「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」などと国粋主義1者が非難の声を挙げるようになっていた。自由民権派も明治政府が鹿鳴館を利用して民衆から搾り取った税金を冗費に当てていたのに「財政難」と主張していたと責任を追及した。

当時、平民主義2を提唱した徳富蘇峰は「貴族的欧化主義」では何も生み出さないと批判して、「下からの欧化」を唱えた。蘆花もその後、『黒潮』によって当時の上流社会の腐敗や堕落を酷評した。以上から見ると、日本全国欧化主義を振りかざしたものの、各派の意見が食い違ったことがわかる。

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