关于日本书法发展史的考察 日本書道の発展史についての考察毕业论文

 2021-04-01 11:04

摘 要

本论文主要叙述了中国的书法文化以朝鲜国的使者王仁为契机,向日本带去了系统的文字和汉文的典籍,此后日本人才开始学习汉文。后来到了阿直岐,王仁的后代来到日本后,同化为日本人,作为东西文部在大和,河内等地任祭扫,出纳等职。到了推古天皇时代,日本与中国隋朝建邦。留学生和留学僧的归国给日本带来了中国的书法。当时的书法主要模仿中国六朝书体,一般而言,距形成一代书风还是比较遥远。由于遣唐使和留学生带回的唐朝书迹,唐代书风广为流行。东晋王羲之的书风也备受敬仰。平安时代后期确立了“和样”书风,改变了仅仅受中国书风影响的历史,出现永远作为书法典范而被推崇的作品。在汉字的世界,被誉为“三蹟”的书法家探索和样化之路;在假名世界,出现了连绵流丽的假名书风。可以说,书法在日本历代的发展过程中,平安时代是最为繁盛的。 

日本的现代书法带有现代的再创造的韵味,包括他们对传统的理解和认识,虽然他们的书法功底不深,但作为艺术品来说,价值还是很大的。

关键词:书法 汉字 假名 发展史

目 次

はじめに 1

第一章 日本書道とは 2

1.1 書道とは 2

1.2 書道の分類と流派 2

第二章 日本書道に関する先行研究 4

第三章 日本における書道の発展 5

3.1 漢字の伝来 5

3.2 平安時代に活躍した「三筆」「三蹟」 5

3.3 万葉仮名の出現と仮名書道 6

3.4 仏教の推進作用 7

第四章 現代における日本の書道 9

4.1 「実用性」の書道 9

4.2 日本人(の中)の書道 9

おわりに 11

謝辞 12

参考文献 13

はじめに

本研究は、日本の書道に関する研究である。四世紀後半から五世紀ごろに、漢字が中国から朝鮮半島を経って、日本に伝えられた。書道の歴史というと、中国で漢字が誕生したことをかわきりに始まったということは間違っていないと思う。そして、日本では中国の漢字の草書を真似た「ひらがな」が誕生し、漢字の部首などを利用して音をあらわす「かたかな」も出現した。こうして、日本の文字が独自の道を歩み始めた。それにしても、中国の漢字が日本の文字の使用をおおいに促進したといえる。また、書道文化の導入で、両国の文化上の交流が一層高いレベルのものになった。これをきっかけに、書道も日本の各歴史時代において独自の風格を育んだ。 

書道はもともと中国の東晋からおこり、数百年にわたって磨き上げた芸術の一形式で、さらに本国の大切な文化財の一種になったといえる。それに、中国の書道はそのきれいな文字、独特の風格で世界の各国を影響する。本研究は、書道が日本に上陸したとき、日本人が丸ごとに中国式の書道を受け入れたのか、あるいはそうではないのか、受け入れた後、中国の書道が、日本の各時代においてどんな変化を経ているのかを扱う、また、現代に至るまで、書道は日本人の生活における役割は一体何であるか、以上の問題をめぐって研究を進めていきたいと思う。

第一章 日本書道とは

1.1 書道とは 

「全身を込めて、ほかの影響を受けないで、文字の書き習いを通じて形象美を求める一種の実技」[1]『新明解国語辞典』の中に書道に関する説明がこのように言及した。書道の文化は、千年以上にも渡り、そのきれいなことで、人々に愛され、追求されてきていることになる。現代の人々は、一般的にはパソコンという道具の使用によって、文章を書くため、筆の使用が、現代の生活の中であまり見られなくなったというのは事実である、書道のもつ伝統な文化もその精神も、現代の私たちにとって大変重要で、重視するべきだと思う。 一方、書道の影響から見れば、書は書くことによって、一種の文字美を創造する東方の芸術であって、カリグラフィーの一種である。中国に起源したが、日本の漢字によって、できた仮名とベトナムの発明されたチュナムがそれぞれの自分なりの書風を持っている。

伝統な文化としての書道は、中国で生まれてから朝鮮半島を経て日本に入った。書道が日本に広まったのは、中国漢字の輸入のおかげだと言わなければならないと思っている。漢字から崩してできた日本独特の「ひらがな」が誕生するまでに、書道は日本でずっとそれ自身の発展の道を探していた。その後はやっと、独自の道を歩み始めていた。 

1.2 書道の分類と流派 

「毛筆によって、文字を書く芸術である書道は昔から漢字を主流とする中国文化圏で発達してきた。日本においてはかな文字が出現して、独自の道を歩んで、諸流派が生まれた。例えば、世尊流、法性寺流などのである。」[2]

日本の流派というと、日本書道の分類方法を説明しなければならなくて、主に以下の二種の分類方法である。 

第一種は漢字書道とかな書道に分けられる。 漢字書道はさらに楷書、行書、草書を三つの書に分けられる。 紀元4世紀ごろ、中国の表意文字を日本に入って、漢字と呼ばれたようになる。主に男子に使われていた。かなは一般的に漢字の草書体から発展してきたと認め、それは万葉かな、ひらがなとカタカナ三位一体の組合で、最初女性だけに使われたから、女性字体と呼んだ。

第二種は流派を基準にして分けられる。最も有名なのは「世尊寺流」と「青蓮院流」である。「世尊寺流」は「三蹟」の藤原行成が創立して、多くの流派の中で最高の権威を持っていた。「青蓮院流」は、長い内に「和様書道」の肝心な流派である。源頼朝が創造した鎌倉幕府時代においては、政権者が貴族から武士に変わって、浄土宗、真宗、日蓮宗と言いった仏教が繁栄して、武家という書風が日本と中国両国の禅僧を通じて盛り上がり、その明瞭上品な特徴は力強い和様の書道世界に影響を与えた。また、和様と禅様が同時に流行して、文字美を第二位にして、実用性を大切にする変革が起きて、漢字とかなが交じり文も普通化するようになった。和様には諸流派がある。例えば、世尊寺流、法性寺流、俊成流、定家様がある。また、鎌倉時代以降、天皇一族の書風が後世、宸翰様(しんかんよう)とみなされ、伏見院流、勅筆流、後柏原院流といったものがある。それぞれ、伏見天皇、後円融天皇、後柏原天皇によって、作られたものである。

第二章 日本書道に関する先行研究

王義之の書風が奈良時代にも平安時代にも主流としているが、(小野道風、藤原佐理、藤原行成)らによる「三蹟」が平安時代中期に出現して、日本人らしいひとつの感覚のスタイルを完成させた。それを皮切りにして、平安末期に法性寺流が出現した。鎌倉時代末期に青蓮院流が出現した。江戸時代に御家流が出現した。「王義之書法が和様書の基礎を築いた。藤原佐理はその道の書を受け継がた。藤原行成にいたって完成の域に達した。」[3]「奈良時代から文化の和様化の萌芽が出現したが、平安初期には唐風文化の影に隠れられた。しかし、平安中期ごろに和様化がようやく出現した。これは唐風化の波が沈静化にして、再日本の要素が文化の前面へ出軍したからである。平仮名、片仮名の発明によって、日本語の表記が簡単になっていることはその特徴である。」[4]また、寺子屋という教育機関が全日本に開けて、庶民教育を普遍化にして、御家流を教えて、手習いことが教育の中心になった。そのために、書道は平安以来もともと上流社会の間に流行した活動であったが、この時代おいては、庶民の間にも普通になった。しかも、公家、武家、庶民の間に広まった和様が儒学者や文人の趣味を有する知識人といった特別な人たちの間に広まった唐様と比べて、数が多い。 

物作りから始まる芸術が時間に連れて、だんだん体系的理論が完成していく。このように、文字を書く行為は長い書の歴史において一つの造型芸術となって、中国でも、日本でも、書道に関する理論も展開するようになった。しかし、文字と書体の源より始まって、書法と書品を重視することが多い中国書道が初期にも、書論において書の本当のものに言及したが、日本においての書論が書の形式と学問を述べ、中世と近世に至って、別に家の形式と書風を伝播することを大切にした。

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