摘 要
本论文主要围绕中日七夕传说,着眼于传说中所蕴含的民俗信仰,探讨其异同点。并通过比较中日七夕传说中的信仰,来探究中国的七夕传说传播到日本的过程中,两国的民俗信仰差异对于日本本国的七夕传说内容的变化产生了怎样的影响。
本文首先简单介绍了中日七夕传说各自的演变过程及基本情节。接着分别分析了中日七夕传说中所体现的民俗信仰。然后依据前文的分析,提取出共同点及不同点进行比较。通过比较发现两者都展现了生殖崇拜,自然崇拜以及祖先崇拜的倾向,但这些信仰在两国有着不同的表现方式。为了使传说更符合本国人民的信仰观,日本人将中国的七夕传说中与星辰和牛有关的内容进行了删改,而增添了竹和水等日本固有的信仰对象。
关键词:七夕传说;信仰;中日比较
目 次
はじめに 1
- 先行研究 2
- 中日七夕伝説の変容 3
-
中日七夕伝説に含まれる信仰 6
- 中国七夕伝説の信仰 6
- 日本七夕伝説の信仰 7
-
中日七夕伝説の信仰比較 9
- 共通点 9
- 相違点 10
おわりに 12
参考文献 13
謝 辞 14
はじめに
はじめに
七夕に関する伝説は中国と日本両方でも長い歴史を持っている。日本の七夕伝説も習俗も中国から伝わったと言われる。しかし、地理環境や社会習俗、民俗信仰などの影響を受けて、伝説の内容とイメージはそれぞれに変化が起こっている。すなわち、日本人がその伝説と自国の伝統的な民俗信仰や習俗などを結んで、自分の特色を持っている七夕伝説を作ってきた。
それに対して、本論文は信仰というテーマを選んで、文化も歴史も様々につながっている二つの国のよく似ている七夕という伝説をめぐって、民俗学の視点からその伝説の中に含まれる民俗信仰を分析し、伝説が伝わっている過程に、中日民俗信仰はどのように影響を与えるのかと解明しようと思う。
1 先行研究
1 先行研究
中日七夕に関する先行研究と言うと、20 世紀から、学者たちが民俗学、文学、社会学などいろいろな視点から数え切れない研究成果が出ている。
1900 年、高木敏雄の「羽衣伝説の研究」が『帝国文学』で発表してから、七夕伝説は日本の学者の注目されている。その後、日本では七夕についての研究は 1920 年代に正式に展開した。国文学を民俗学の方法で研究した折口(1965) の中に「水の女」という言葉をめぐって七夕伝説を研究して、日本の七夕伝説及びその信仰は日本固有のものであると指摘した。既存の文献に拘った折口信夫と違って、柳田(1948)が全国各地において、七夕伝説を含める日本のいろいろな民間伝説を集めて、そして地域によって分類した。その中に、分析的な内容より、単に並べることが多いけれども、後世の研究者にとっていい参考であると言われている。
中国では、七夕についての研究は始まったのが日本より遅い。钟(1925)は最も早い研究の一つと言ってもいい。その後、起源や変容は七夕に対する研究の重点になっている。范(1995)が具体的に中国の牽牛織女に関する文献や資料を整理して、「嫁後廃織」や「烏鵲填河」という大切な筋を確認した 。孟(2008) は、牽牛や織女を農耕信仰の対象として実際の星と組み合わせるのは七夕の起源である。そして、七夕伝説は長い年月が経って、封建制が完了された漢代に形成したと考えた。
以上の先行研究から見ると、七夕伝説に対して、日本の学者が類型研究に関心を持って、中国の学者が起源や変容に関心を持っているような傾向がある。ただし、信仰、宗教などの視点から文化背景を検討する研究もいくつかがある。例えば、吴(2003)は、「数字の七」や「七夕宗教礼儀」、「七夕葬送礼儀」、
「牽牛織女」、「西王母」という五つの方面から検討して、夏王朝時代の宗教マナー、暦法は七夕宗教文化と切り離せない関係があるという結論を出した。しかしながら、小南(1974)が今までの研究は日中両国を孤立して論述するのが多いと指摘した。それに対して、本論文は比較的な方法で日中七夕伝説の中に含まれる民俗信仰を研究したいと思う。
2 中日七夕伝説の変容
中国の七夕の伝説について、その源に立ち返ると、『詩経』の「小雅」に「維天有漢、監亦有光。跂彼織女、終日七襄。雖則七襄、不成報章。皖彼牽牛、不以服箱」という最も古い例をみられる。この例はまだ伝説とは言えないのに、
「牽牛」、「織女」という二星はその時代からこそいろいろな伝承の主体として伝えられてきた。漢代になると、牽牛織女に関する記録はだんだん多くなってきた。『風俗通 1』には「織女七夕当渡河、使鵲為橋」という記録があり、そして、『四民月令』の中に、「七月七日曝経書、設酒脯時果、散香粉于筵上、祈請于河鼓、織女、言此二星当会」という記載から見ると、七月七日という時点は牽牛織女と繋がってしまった。『古詩十九首』になると、「迢迢牽牛星、皎皎河漢女。纖纖擢素手、札札弄機杼。終日不成章、泣涕零如雤。河漢清且浅、相去複幾許。盈盈一水間、脈脈不得語。」という詩歌は初めて牽牛織女の恋愛を描いて、現代の七夕伝説の原型と思われている。どうして七夕伝説の原型は漢代に完成されたかと言うと、今まで伝わっている七夕伝説は基本的に言えば、農耕文化を表す伝説なのである。それに、中国における封建制は漢代に完全され、自然経済の男耕女織というモデルも形成したからだと考えた。
漢代以後、神仙鬼怪のことを述べた志怪小説の流行につれて、七夕伝説は一歩を今周知のように発展してきた。そのうえ、地方における地元にはやっている伝説や風俗などの影響を受けていろいろな異文もその過程に生まれた。しかし、変化であれ、異文であれ、伝説の基本的な筋は大きく変わっていなと思われる。その基本的な筋は:
1、両親がなくなった後、兄嫁にいじめられた牛郎は一頭の牛に伴う。
2、牛は牛郎に河に浴びている織女の衣を隠させる。
3、天上へ帰れない織女は牛郎の妻になって、一人の息子と一人の娘を産む。
4、王母がこのことを知ると、織女を捕らえて連れ帰る。
5、牛郎は牛が死んだ前に教えた方法で、牛の皮を着いて息子と娘を連れて天上へ行く。
6、王母は金簪で天の川を引いて、牛郎と織女を分けて、毎年の七月七日だけカササギが作った橋を渡って合わせる。
日本では、『古事記』に記録した「 棚機津女(たなばたつめ)」の神話は日本七夕伝説の起源であると思われる。川の辺の棚の中で布を織りながら、神様を待っている尐女は棚機津女と呼ばれる。それは中国の七夕伝説また七夕さえと無関係で、日本固有の神話であると思われる。
一方、七夕伝説が中国から日本に伝わったのは奈良時代とされている。奈良時代に成立した『万葉集 2』の中には、「この夕降り来る 雤彦星のはや漕ぐ舟の櫂の散りかも」という七夕の歌が 133 首が収められている。これは日本七夕伝説に関する一番早く記録であると言われる。ところが、中西(1994)によると、七夕伝説が日本に伝来したのは二回のブームがある。第一回は生活面で、紡織の技術とともに伝来した。織女と棚機津女が同じよう特徴を持っているので中日七夕伝説が初めて日本の棚機津女神話と結んだ。第二回は8世紀ごろ、奈良時代に漢詩などを風雅な趣味として日本の上層階級に広まってきた。その後、上層階級から下層階級に伝わって、中国と同じように、詩歌から伝説に変わってきた。
現代において、日本の七夕伝説は各地によって、いろいろな例話がある。一
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