摘 要
中岛敦(1909-1942)是日本近代作家。他所留下的为数不多的作品无一不闪耀着其强烈的个人色彩,他用笔向世界喊出了自己的疑虑,困惑,矛盾,以及志向。中岛敦文学之所以拥有跨越时空打动读者的力量的一个重要缘由便在于此。
了解作品背后的创作者的生平以及思想对于加深对作品的理解是极有帮助的。因此,本论文主要是通过对中岛敦晚年创作的长篇小说《光与风与梦》中个别章段的文本进行解读,结合其他中岛作品,旨在揭示出中岛敦在创作之中流露出来的文学观。
关键词:中岛敦;文学观;小说创作;光与风与梦
目 次
はじめに 1
背景と目的 1
先行研究 2
1「光と風と夢」と中島敦 4
1.1 「光と風と夢」とスティヴンソン 4
1.2 中島敦とスティヴンソン 5
2:「光と風と夢」における中島敦の文学観 7
2.1 文学という道 8
2.2 文学の本質 10
2.3 巧い小説と拙い小説 11
おわりに 14
参考文献 15
謝 辞 16
はじめに
背景と目的
中島敦(1909-1942)は生前においては名を挙げられなかったが、「山月記」という小説によって、日本の「国民作家」とでも言い得る小説家となった。彼は漢文学の家系でこの世に生を享け、幼時から中国古典を熟読した。そして抜群の知力によって、見事にその漢文素養を活かし、文壇デビュー作「山月記」を書きあげた。さらに中国と深く関わった「李陵」、「名人伝」、「弟子」、「我が西遊記」などを世に出したが故に、よく「漢籍に埋没している学究」と誤解されるが、実際は古今東西を問わずに幅広い分野において書物を読んでいた。第15回の芥川賞の候補作になった『光と風と夢』を以て、「世界的規模を持つ」と久米正雄に評されたほどの文学者であった[1]。しかし、病弱な彼はデビューしてから僅かな八ヶ月後、33歳の若さで世を去った。
中島敦が昭和八年東京帝国大学文学部国文科を卒業する時、提出した卒業論文は、「耽美派の研究」という、原稿用紙420枚にも達した長編論考である。この日本耽美派を対象にする論文について、氷上英広は、「対象として、唯美主義、ダンディズム、ディレッタンティズムといったものは、中島敦自身の一面であり、その所々にひらめいている批判的な一家言は、彼のその後の作家的成長と思い合わせるとき、なかなかに興味がある」[2]と書いたことがある。実は、卒業論文だけではなく、中島の創作には常に彼自身を投影した部分があり、彼自身の一面であると思われる。晩年の長編小説『光と風と夢』もその典型的な一つである。
書く前に実際に行ったことのない南洋の風景と人物を、やや固い漢文調と色彩感覚豊かな書き方を以て描き出し、荒い印象派の絵の如く、深く味わえば作者の特色が明らかに呈している。第二十章のスティヴンソンの病死を以て、物語は幕を下ろした。そして中島は、この小説を世に送り出してから一年も経たないうちに、喘息で亡くなった。死ぬ前に、彼は生命を燃やし尽くし、幾つかの傑作を産んだ。晩年の中島敦は自分を抑え、昭和十七年という厳しい時局に制限されながら、死の覚悟と生への欲求を背景に、自分の考えを小説に織り込ませた。故に、『光と風と夢』の文学史上の意義はさておき、中島自身の生涯回想と未来展望を兼ねて書かれたものとして、中島敦を理解するには有意義な一冊であろう。
中島の魅力の一つはその激しい感情移入にあると言われている。「山月記」を読んで、共感せずにはいられない人間は少なかろう。人はそれぞれ違う背景があり、また人生経歴も決して同じであるはずがない。しかし、優秀な文学作品には、時間空間を超えて読者に感動を与える不思議な力がある。芸術創作と言っても様々なジャンルがあって、文学作品と一口に言っても、細かく分かれると、様々な文体があるが、完成された作品は必ず一つ固定した形しかとっていない。では、何故このように作られたのかというと、そこには作家自身について考察する必要があるように思える。作者の創作モチベーションや創作理念が少しでも分かれば、作品に対する理解も深まることであろう。このような発想から、私は中島敦が書いたもの、特に小説『光と風と夢』に重きを置いて、中島敦の文学観を探索して行きたいと思うようになったのである。
先行研究
中島敦が残した作品は多量と言えないが、彼とその作品に関する研究は、枚挙にいとまがないほど多量である。
戦前の最も重要な中島論は、中村光夫が1944年に書いた「中島敦論」である。中村氏は中島文学(主に短編小説)の特質を分析し、「中島は現代の小芥川と云ってもよい」と評し、この後の中島論の基調をなした。1948年筑摩書房が第一次『中島敦全集』を刊行したため、論考も多くなった。その中で武田泰淳と臼井吉見、そして氷上英広、西義之が中島を高く評価し、中島文学の新しさ、彼と芥川や森鴎外、更にカフカについての比較研究も初歩的にされた。1959年東京文治堂書店が第二次『中島敦全集』を出版した。未発表資料が多く公表されたにつれ、論文の量もまた激増した。2014年まで、中島全集は四度刊行され、勝又浩、鷺只雄、佐々木充、田鍋幸信、藤村猛、川村湊等が論文と研究単行本を数多く世に送った。
以上は日本方面の研究概況で、70年間絶ったことがないが、中国ではそうではない。1944年、草野心平が中島の独自なスタイルに「理屈なしに感動した」故に、「山月記」、「文字禍」、「李陵」の三編を盧錫熹に訳させ、「電光石火的に太平書局からの出版を決めた」。しかし70年来、郭勇の『中島敦文学の比較研究』[3]という論著以外、数人の学生論文しかなかった。
ここで言わねばならないのは、中日を問わず、ここまでの中島文学についての論考は、主に「山月記」や「狼疾記」などの代表作をめぐって行われたものが多い。また、中島その人に関連して研究する場合は、その作品を比較文学の視点から論じるのが普通である。本稿とはさほど深く繋がっていないため、詳しく述べないことにする。
『光と風と夢』という長編小説は芥川賞候補作にまでなった作品で、完成度の低いものではないため、研究されることも少なくない。1959年、岩田一男が「『光と風と夢』とVailima letters」を書き、『光と風と夢』における中島の創作とスティヴンスンが書いた文章を緻密な考察によって分離し、後の『光と風と夢』論の礎を築いた。山本健吉は1962年に発表した論文「伝奇と歴史小説」で、『光と風と夢』の中に隠された中島のスティヴンスン観を論じ、中島は文学的生活と市民生活を両立させたい特殊な作家であるとの結論を出した。そして、1964年、田鍋幸信は岩田氏の研究を踏まえ、比較文学の視点から出発して、論文「『光と風と夢』におけるスティヴンスン」を書いた。その後は鷺只雄氏等の論文も多くあるが、全体的に見ると、中島敦とスティヴンスン両者を比較する主旨の研究が主流であることが明らかである。
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