浅谈中日茶文化中“调和”的精神毕业论文

 2021-04-02 10:04

摘 要

饮茶自古以来就是中国人民生活中不可分割的一部分。随着茶叶从中国流传日本,日本人在其中加入自己国家的独特文化,发展成日本特有的茶道。因此,其礼仪,器具,乃至精神方面都与中国茶文化有着很深的联系。其中最重要的一点就是“调和”。

本文通过对中日两国茶文化中“调和”精神的考察,剖析了两国茶文化中精神面的共同点。在详细论叙中日两国茶文化的起源和发展的基础上,又从思想体系和宗教的角度剖析了两国茶文化中“调和”精神的地位及其表现。

根据本文的研究,可以明了:两国的茶文化中的调和精神,都体现出对人际关系,以及人与自然关系的重视。

关键词:中日茶文化;调和;历史发展;思想体系;宗教

目  次

はじめに 1

1 中日の茶文化について 2

1.1 中国茶文化の歴史 2

1.2 日本茶道の歴史 4

2 思想から見る中日茶文化の精神と調和精神 6

2.1 中国茶文化の精神と「調和」 6

2.2 日本茶道精神と「調和」 7

3 宗教から見る中日茶文化の調和精神 11

3.1 儒教と道教に影響された中国茶文化の調和精神 11

3.2 禅と日本茶道の調和精神 12

おわりに 15

参考文献 16

謝  辞 17

はじめに

中国には、「生活の必要品は柴、米、油、塩、醤油、お酢、茶の七つである。」という諺がある。これを見れば、お茶は中国人の生活において重要な地位があるとは言うまでもない。長い歴史の中で、茶文化はずっと中国文化の大切な一部分として、輝いている。

中日両国は一衣帯水の隣国であるり、古くから政治、経済、文化の分野での交流が頻繁である。お茶は両国の文化交流の架け橋として、重要な役割を果たしてきた。日本茶道の茶は最初、中国から伝入したものである。そして、茶が禅宗と結びつき、日本本民族の独特な精神も取り入れられ、今の日本の茶道が創立されたのである。中日両国の茶文化の中にある「調和」精神を検討することを通じて、両国の茶文化の共通点を見つけることが、両国の茶文化の交流に役に立つと思う。

本稿は中日茶文化の歴史、思想体系、それに宗教から受けた影響の三つの方面から、中日茶文化の中にある「調和」精神を検討するものである。

では、この「調和」とはどういう意味であろう。広辞苑によれば、「うまくつりあい、全体が整っていること。いくつかのものが矛盾なく互いにほどよいこと。」とある。つまり、万事万物が順調で発展していること、人と人、人と自然、人と環境が矛盾なく共存していることを指している。

1 中日の茶文化について

1.1 中国茶文化の歴史

中国では、神農氏という人が初めて「茶」を飲んだと言われている。『神農本草経』には、「神农尝百草、一日遇七十二毒,得茶乃解」[1]と書かれている。ここにある「荼」は「茶」と同じ意味である。その時、茶は薬として利用されていた。それから何代も経って、漢代になると、茶葉の保健作用がますます重視され、茶葉についての文献記録も増えた。この頃から茶葉が食料と飲料として利用されていた。

茶が文化と結び、茶文化になりはじめたのは、魏晋南北朝時代である。魏晋南北朝の時は乱世であり、道家の思想を奉じる文人達が多くなった。この思想は「無為」を中心にして、当時の文人たちの隠逸または現実の世界を逃げるという心理とぴったりした。文人たちは詩を作りながらお茶を飲んだ。文人達は落ち着きの心を保つために、お茶を飲むことは多くなった。これは多分茶に気持ちを静めると言う効用があるからである。また、儒、道、佛の三教の思想を融合した玄学が出てきた。玄学に夢中した文人が茶についての詩をたくさん作り出した。晋代の詩人、張載の『登成都楼』に、「芳茶冠六清,滋味播九区」(芳荼は六清を冠し、滋味は九区に播く)があるように茶についての記述が五言の古詩の中に出てくる。これから、茶は文化の意味を持ち始めた。また、茶は儒家の「倹」と言う道徳を結ぶのはこの時期である。『晋书桓温列传』に「温性俭,每宴惟下七奠,拌茶果而已」とある。ここで、茶は節約の代表になった。儒家の「温良恭俭让」と「和为贵,修养途径是穷独兼达,正己正人,既要积极进取,又要洁身自好」茶は「倹」を通じで、儒家思想に繋がっている。

唐代は中国の茶文化が成熟した時期である。唐代が中国の歴史の中でもとっも繁栄な時代であるともいえる。当時は人の生活レベルはかなり高かった。日常生活以外に、精神方面の追求も多くなった。これは茶文化の発展の背景である。唐代中期に、お茶を飲む風習が全国に及んだ。原因の一つは、仏教の繁栄と深くつながりがあったという。僧侶たちは寺院でお茶を飲みながら、禅学を研究した。そして、信徒たちが僧侶を真似して、お茶を飲んだ。このままにいくと、ようやく、社会風習になった。もう一つ、唐代に、有名な詩人が一人一人と出てきた。詩人たちが茶事を描く詩をたくさん書いた。これを通じて、お茶は文化芸術に結びついた。李白、杜甫、皮日休、白居易等は茶葉や茶事を描く詩作を千余首も書いてある。でも、唐代の茶文化の集大成は陸羽の名作は『茶経』である。『茶経』は十章からなっていて、茶の歴史、産地、製作などについての知識が書かれていた。陸羽も「もとっも宜しきは精行倹徳之人」と述べている。

宋代になると、茶文化のブームが迎えた。茶は柴、米、油、塩と同じように、日常の必要品になった。茶と文化の関係ももっと深くなった。唐代に比べて、宋代の茶事は文化的な品位が更に高めた。清代では、茶にとって、一番の成果は「工夫茶」の完成であるともいえる。「工夫茶」は茶器、雰囲気、環境に対して、非常に重視している。その時、茶に関する芸術も発展していた。詩作だけではなく、歌、踊り、劇などが出てきた。

現代、茶文化歴史の二番目の茶ブームでいろいろな茶文化の研究が行われている。

1.2 日本茶道の歴史

元々、日本には、茶葉というものがなかったという。ところが、今、茶道は日本の伝統文化を代表しているの一つである。では、茶道はどうやって発展してきたか。日本茶道の発展歴史を見てみよう。

平安時代に、日本がたくさんの遣唐使を派遣したことがある。それで、多くの僧侶が中国に伝わった。そして、帰国の時、僧侶最澄が茶樹の種を持ち帰った。次に、空海(弘法大師)も中国に渡り、再び茶樹の種を持ち帰った。この二人は日本で茶樹栽培の始祖であると言える。一条兼良の『公事根源』にもそのことを述べている。この時期に、日本の茶が唐代の煎茶法を真似していただけであった。喫茶も一部分の貴族、僧侶たちの中で、流行していた。そして、一時の衰えたこともある。

鎌倉時代になって、栄西という僧侶が日本歴史上、一番目の茶の本を書いた。それは『喫茶養生記』である。栄西の時代、日本と宋朝の貿易が頻繁となった。栄西は中国で禅学を学んだ。彼が茶樹だけでなく、更に茶道の道具、礼式も日本に持ち帰った。栄西は茶祖と禅宗の祖とも呼ばれた。鎌倉の末期、上層の武家社会に「闘茶」が流行した。

室町時代、「闘茶」依然として流行していた。武士階層に、本場の中国の茶器を大金で集めて、これを使って盛大な茶会を開くことがとても流行っていたという。でも、それに対して、村田珠光という茶人が茶会で亭主と客との精神交流を重視する独特的な「草庵茶」を作り出した。村田は始めて禅宗を茶と融合した。もし栄西が茶祖ならば、村田は茶道の祖であるとも言える。村田が禅の精神を取り入れ、簡素静寂を本体とする茶道を興した。村田は禅の思想を通じて、喫茶を飲食娯楽の形式から一つの藝術、哲学、宗教に引き上げたのであった。これで、日本の茶は「道」という色彩を持ち始めた。村田は「謹敬清寂」も提出して、茶を通して、人間関係を改善し、万事を調和を祈るのであった。これが「侘茶」の源流となっていく

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