摘 要
《伊豆的舞女》是日本首位获得诺贝尔文学奖的著名作家川端康成的早期作品,它写于1926年,发表在《文艺时代》上。在这里,他饱蘸伊豆风情写下了一个凄婉含蓄而又朦朦胧胧的青春爱情故事,其间无不渗透着当时日本民族文化的心态,一种强烈的生命意识,即在现实的重压和冷酷面前,人们的哀伤、忧愁。它宛如负载着人性的灵魂,使作者温柔的伤感、淡淡的哀愁从中流过并与之融为一体,作者在这里找到了自己的生命家园。这种哀伤与忧愁同小说情节融为一体,并成为该小说的一大特色,而这一特色正是日本文学美学的传统理念——物哀的体现。
关键词:伊豆的舞女;物哀;川端康成
目 次
はじめに 1
1 物哀れの源と意味 2
1.1 物哀れの意味 2
1.2 日本文学中の物哀れ 3
2 『伊豆の踊り子』の物哀れの美しさ 4
2.1 風景描写に含まれた物哀れの美しさ 4
2.2 人物描写に含まれた物哀れの美しさ 8
2.3 「私」と薫子の愛情に含まれた物哀れの美しさ 9
3 『伊豆の踊り子』中の物哀れと川端の人生経験の関係 13
3.1川端の人生経験 13
3.2「伊豆の踊り子」中の物哀れに繋がっている川端の人生経験 14
おわりに 17
参考文献 18
謝 辞 19
はじめに
『伊豆の踊り子』は日本歴史上で最初にノーベル文学賞を獲得した作家の川端康成の出世作だ。世界の読者達はそれを熟知して好きだ。何度もスクリーンに運ばれて、人々の心の中に磨滅しにくい印を残している。清純な「薫子」を核心にしての芸人達は読者の心の中の日本伝統の踊り子の典型的なイメージを作った。日本伊豆の温泉と火山が構成しているすばらしい風景を加えて、この作品はきわめてロマンチシズムのものになる。しかし、そのロマンチックな面から、微かな哀愁がどこでも感じさせられる。国内の学者達は「私」と踊り子間の微妙な感情から分析する面が多い。本文は新しい道を切り開くことを試みて、当時の川端康成と芸人の心境を感じて、作品が体現している物哀れを改めて解釈しようとする。
日本の文学といったら、明らかに「源氏物語」を見逃すわけにはいかないが、同様に川端康成の作品も見ないわけにはいかない。日本伝統の文学理念として、「物哀れ」は日本民族の重要な審美の追求だ。このようなの審美意識の形成は特殊な民族環境と深い人文背景につながっている。「源氏物語」が「物哀れ」の時代を開いてから、日本小説の中で明らかに1種の微かな悲しみを含んでいる。「物哀れ」も全国的な民族意識として、詩人、散文家、物語の作者に広く伝われてきた。「源氏物語」が現わした悲しい風格と人物の無常的で、枯れて落ちる運命の描写は「物哀れ」を表現して、自然変化と生命の意味に対しての思考をしみ込んだ。
1 物哀れの源と意味
1.1 物哀れの意味
「物哀れ」というのは感動、感慨や可憐などの意味を含めるある審美意識である。自分が主観的に外界のものことに接する時、感情を抑えられなくて自ずから生み出された奥深い感情とも言える。この自然に湧いてくる感情は、たとえば、喜び、怒り、恐怖、悲しさや憧れなどいろんなことを含めている。このような感情を持つ人も「物哀れ」を理解できる。中国語の「真性情」と似ている。ここの「物」というのは雪、月、花即ち春夏秋冬四節の景色、草木のありとあらゆる姿態、うんうんたる衆生の表情と態度及び心理などのこと。日本では、「物」というのは山川草木、宇宙万物、自然のすべて、引いて人々の感情の美までのことである。「哀れ」というのは人の感情の中で、残されるのはただ思いのままにならないのみのもの、たとえば、憂鬱、悲しさなどのこと。「物哀れ」の審美意識が日本文学の伝統審美意識と言われ、古典精神の源である。すべての民族は自分のものを他人の前に展示する義務がある。超然とした姿勢と繊細な心理感受と文章の中でどこにでも立ち込めている哀愁は全面的に「東方の美しさ」を示し、独特な審美意識も形成される。川端康成は日本文学の美しさをしっかり守っている。彼は「文学自伝」の中で、「僕は東方の古典を信じて、自分なりの方法でその幻想を歌えます」と書いた。そして、彼も「平安朝の物哀れは日本の美しさの源です。美しさは悲しさに繋がっています。」[1] 常に強調した。『伊豆の踊り子』の中で、主人公の悲しさは美しさに所属して、また美しさに制約される。いささかな悲しさが真実な美しさと融合させるのは特別な「悲哀美の抒情世界」を創造した。物哀れ、空寂と閑寂、この三つの精神的に繋がっている特別な芸術美は日本民族固有の美意識と現してきた芸術深さを大分進化させる。日本人がこのような特別な美しさに対しての感情と趣味は相当普遍的で、文学芸術に拘らず、生活の各方面まで及ぼす。日本人は残月、咲いたばかりのつぼみ、散っていく花びらに割に好きだ。その原因は上記のものはある悲しさが潜めていて、その美しさを増加させる。このような無常的な哀感と無常的な美観こそ日本人の物哀れの真の美しさである。
1.2 日本文学中の物哀れ
物哀れを割りよく理解したければ、その由来を調べなければならない。物哀れの特質は感動、調和、優美、情趣、哀感五つに分かれる。一番目立っているのは哀感。日本の物哀れは長い歴史を持って、生活の各方面にしみ込んでいる。紫式部の『源氏物語』から川端康成の『伊豆の踊り子』まで、いささかな寂と哀愁が文章のここかしこに立ち込めている。小説を読んだあと、その哀愁も自分の心の中で残されて抑えきれなくて続けていく。私たちが目で見え、耳で聞け、体で体験できる世の中の万物のありとあらゆる姿を心の中で味わい、中の情勢をいちいちとはっきり識別するのは「物哀れ」の認識だ。日本のドラマ、アニメ、時代曲の中で、物哀れも重要な感情として常に存在している。
2 『伊豆の踊り子』の物哀れの美しさ
2.1 風景描写に含まれた物哀れの美しさ
『伊豆の踊り子』は、孤児根性でゆがんでしまった自分自身に嫌気がさした20歳の青年が、憂鬱から逃れるために伊豆を旅する物語だ。青年は、途中で出会った旅芸人の一座と行程をともにする。一座の中の14歳の少女とのつかの間の縁が、青年の心に染み入る。旅の途中、青年の心の中では少女に対する欲望が渦巻く。少女は、無邪気に体を寄せて青年に対する好意を表す。しかし、幼なすぎる少女との間には何も起こりなくですむ。そんな少女との触れ合いをとおして、青年の心は癒されていく。一座に見送られて船に乗った青年は、船の中で、人に見られるのも気にせずにぽろぽろと涙をこぼす。少女と出会ったわずかな時間の中で、青年は、過剰な自尊心や傲慢さから解放され、船室の同船者からの好意を自然に受け入れられるようになる。
今回、『伊豆の踊り子』を読み返してみて、改めて、短い作品なんだと実感する。物語は、青年の5日間の旅の日程にそって進む。その間に、さしたる事件が発生するわけではない。偶然に道連れとなった旅芸人たちといっしょに数日を過ごすうちに、意固地になって取り繕っていた自意識が解けてなくなり、人生との和解を成し遂げたと思われる青年の姿が提示されるだけだ。『伊豆の踊り子』は、もともとは、もっと長い草稿の一部分だったようだ。『伊豆の踊り子』の中では、青年の出生や性格など、物語の背景となるべき物語はほとんど何も語られていない。『伊豆の踊り子』では、旅の行程と、青年の目に映った美しい踊り子、そして青年の行動と心理描写が語られているだけだ。長編小説の一部分だけを切り取ったような短編で、さしたるストーリーの展開もなく、踊り子の幼い美しさをとおして主人公の心に訪れた変化を描き、それを読者に納得させてしまうのは、さすがだと思う。
日本民族の審美意識の中で、自然との融合、詳しく言わば、有限的且つ具体的なものを通じて、無限な時間と空間を体験するのを極めて重視している。日本文学は自然美に非常に敏感、繊細で、常にその独特の視察力と感受力を用いて情趣的な美しさを探し求め、悟ってから人物内在の気持ちを対象化させる。日本の古典の名著『枕草子』[2]は、「山際の一筋の赤み、朝焼けは千里の春日の明け方を招きます;黒くてまるで墨をはね散らすような夏の夜で、蛍の火がちらりほらりと点在します;晩秋の黄昏で群の雁は空を横切って、群のカラスは家に帰ります;厳霜が土に敷いて、炉火が揺らめいている厳冬の明け方、全ては自然界の佳景で、すべては人物内心の振る舞いに役立ちますと思っています」。[3] 伝統と最も深い繋がりを持っていて、形式から内容まですべて日本の感情と感じをしみ込んでいる作家の川端は『伊豆の踊り子』の中で、とても自然にこのような審美の情趣を体現してきた。作者はストーリの背景を秋の伊豆に置く。絵のような背景の下で、純真で、優美で感傷的になる情緒の愛の歌を展示してきた。それこそ「物哀れ」の本質だ。
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