浅析日本小袖服发展历史毕业论文

 2021-04-03 11:04

摘 要

中文摘要

本论文旨在研究日本和服中的小袖服的历史发展。

小袖服是现代和服的原型,产生于平安时代,具体是在平安时代后期由于当时朝廷产生作为下装出现的。这个时代的小袖服花纹配色都很简单,主要是公家使用,但是平民等也可使用。但是两者形态有所不同。

进入谦仓时代以后,小袖服开始变得豪华,流行起来,但是到这个时代为 止,对于武士或者贵族之类的上层阶层来说,小袖服还是只作为下装的。进入战国时代的室町时代以后,小袖服主要流行于当时的武家,形态也发生了相应的变化,例如袖子变小。当时武家夫人把小袖服当作正装使用,当时的小袖服极能体现和代表当时的武家思想,是“武家意识的反应”,这个时代的小袖服变得更加正式,当时小袖服被称为“桃山小袖”。

在江户时代,出现了士农工商的身份制分化,由于经济的繁荣,小袖服也变得过于奢华,以致当时的朝廷颁布了禁令,抑制过于奢华的小袖服,即便如此, 这个时代还是诞生了很多极具美感的代表小袖服,当时的代表小袖服有庆长小 袖,宽文小袖,元禄小袖。

关键词:小袖;平安;室町;江户;发展

目 次

はじめに 1

  1. 先行研究 2
    1. 初期の小袖 2
    2. 下着としての小袖の登場と唐衣裳装束の成立 3
  2. 室町時代の小袖 5
    1. 武家服装の成立 5
    2. 武家意識の反映 6
  3. 江戸時代の小袖 8
    1. 江戸時代における変化 8
    2. 士農工商の身分制後の小袖 9
    3. 江戸時代代表小袖 10

終わりに 14

参考文献 15

はじめに

中国と日本は古くからの友好な隣国同士で、交際の歴史は二千年も続いている。古くから両国は教育、文化、貿易、政治などにおける交流は日々に深めている。古くから 日本は中国の隣国として、中国は大きいな影響を与えた。例えば、日本語の中の漢字、仏学、茶道などである。

その中で代表的なのは和服だと思われる。和服は古墳時代で生まれた。古墳時代では埴輪などから男は筒袖の上着に女も筒袖で下はスカート姿という現代の服装に似た形が見られる。飛鳥奈良時代から唐文化の影響を受け始まる、男性の礼服では聖徳太子像などに見られる衣服に変わった。中国で漢服はいつも和服の祖先と思われ ている。着物は和服や呉服と言われている。呉服の語源は、中国の三国時代の時に呉国の織物や着物の縫製方法が日本に伝わったからだと言われている。小袖は和服の中で代表的なのとして、深く影響も受けている。通常私たちが和服と呼ぶ着物が小袖である、小袖は和服の中で最も代表的なのと思われている、今までもまだ使われて いる。

この長い時間で、何が生まれ、小袖はどのような変化を経験し、小袖はいまなおどのような魅力を持っているのか、現代の小袖の模様を考えながら、本論文ではこの問題について探求したい。

先行研究

初期の小袖

室町時代から桃山におかけての小袖の初期のものは今日の長着に比較して寸法 の上にかなりの相違が見られる。現在の長着は身幅より袖幅広く、身丈も長く釣合のとれた形であるが、初期のものは身幅が広く、袖幅狭くまた身丈も短い。それに衿下が 低く、裏のあるものでも裾ぶきがない。身丈が短いのでしたがって袖丈短く、袖の丸み は大きくふり八つがない。この形は能衣装がよく代表している。このように身幅の広か ったことの理由はいくつかあげられるであろうが、婦人の場合まず帯が今のように装飾 的なものでなく極細いものであったから、身幅を広くしてたっぷりと合わせないと前が開き安かった。

次は当時の座り方によるものではなかろうか。現在のように正座ではなく、安座、立 膝など多かったためと考えられる。それ以前の袴や裳で下半身がおおわれた時代の 座り方として安座や立膝は当然なことで、韓国のチーマの幅広なのは座り方に起因し ているのと同じである。袴や裳が脱落すれば必然的に身幅の広いものが必要になるわけである。一部式になり座り方が正座になってもそれが習慣的にしばらくの間は残され ていたということになる。身幅が広ければ裄丈に限度があるので、袖幅は狭くてよいわ けである。なお当時の布幅は中幅物が多かったので、袖幅から衿を落す裁ち方が行 われているのをみると、袖幅の狭かったことを裏づけるも のであり、永禄九年の辻が花小袖は、袖 21.5cm 後身幅 38.5cm また細川忠利着用の小袖の袖幅 33cm 後幅

38cm 衽幅 24cm の実物がこれを証明している。永禄頃は図のように大分現在に近い形であるが、まだ袖幅が身幅より狭い。細い帯から次第に帯幅が広くなると袖幅の方も釣合のとれた幅となり、一方身丈も長くなり享保ころから現在行われているおはしょりが生じだ。正徳三年貝原益軒の「養生訓」に「婦女子と子供は熱気が多いので脇をあく」 とあるのでこのころから身八つ口が明けられ、したがって袖丈も長いものが見られるよう になった。

下着としての小袖の登場と唐衣裳装束の成立

平安時代後期になると、男女とも装束の一番下に小袖を着ることが多くなった。小袖は、装束の広袖の袖口が六十センチくらい開いているのに対して、袖口に手首が通る くらいの大袖の下に筒袖状の小袖が着られていたし、中流以下のあいだでは広く着ら れていたのが小袖であるが、貴族の一般的な服装に登場するのは後期になってから である。これは、おそらく強装束の出現や女性の重ねの枚数の制限などがその背景に あると考えられる。

この貴族層のあいだで防寒用下着として着用されるようになった小袖が、時代を経るとともに表に出てきて、今日の着物になっていった。

唐衣と裳は、中期以降の女房の奉仕装束の必須アイテムであった。『西宮記』巻十七 女装束条にも、唐衣、裳、領巾は朝服のみならず尋常においても女房や采女の必需品であることが記されている。上流貴族女性の家居の際の装いは、袴、単袿に袿を何枚か重ねた姿であったが、彼女たちに仕える女房たちは、袿姿に唐衣と裳を装い領巾 を掛けて出仕したと考えられる。この際、裳は袿重ねが大きな面と量を持つために、前 まで覆うことができなくなり、後ろのみに引く引裳となったのであろう。

唐衣は、前節でも記したように、奈良時代の衣服令にはみられない服飾品であるが、天平二年(730 年)の頃に着用が始まったと考えられる背子が和様化してその名称も変化したものであろう。『和名類聚抄』に「背子、…和名からきぬ」とあり、背子のことを

「からきぬ」と称していたが、延喜二十一年(921 年)開催の『京極御息所褒子歌合』の際の記述には「唐衣」と記されている(『歌合集』)。おそらくこの頃には文字も「唐衣」となったのであろう。

以上のように、唐衣裳装束は家居の服飾であった袿が発達して重袿となり、これに奈良時代以来の出仕時の服飾品である唐衣と裳及び領巾を装って成立したものと思 われる。その後のさらなる和様かの過程で、領巾は儀礼時以外には省略されるようになり、今日の唐衣裳装束の原型が成立したと推測される。その時期は、男性の束帯の 成立と同様に、十世紀後半であろう。

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