从《我是猫》来解读夏目漱石的悲观主义毕业论文

 2021-04-04 10:04

摘 要

夏目漱石作为代表近代日本的国民作家一员,通过众多作品对当时社会提出批判。不仅在亚洲,在世界也颇具知名度的漱石亦受到许多学者关注。学者们从漱石的作品入手,试图解读其思想观念。并进一步结合时代社会背景,结合漱石的生平经历,试图阐明其思想产生的原因。其中,《我是猫》一作作为漱石代表作品,一直是研究者和学者关注的焦点。该作以一只猫为主角,通过猫的眼睛和脑袋,对待身边发生的各种琐事,在发表自己观点的同时也表达出对社会的批判和嫌恶。明明是猫,却拥有比普通人类更为聪慧的头脑和丰富感情。此外,凭借其幽默的表现手法及有趣的情节设计,一直被评价为讽刺小说的杰作。

本稿在资料和先行研究基础上,着眼于漱石《我是猫》一作,特别关注最终章,从作品中选取具体事例,试说明反映出的漱石的悲观观点,并结合时代背景和漱石的生平,探究其悲观产生的原因。关于漱石悲观产生的原因,可知主要分为漱石自身原因和社会原因。

关键词:夏目漱石;我是猫;悲观;观点

目 次

はじめに 1

1 作品の時代背景 3

2 作者の生い立ちと流派 5

2.1 作者の紹介 5

2.2 流派の紹介 6

3 作品のあらすじ 7

4 夏目漱石の悲観的な見方の表現 8

4.1 学士である寒月と金田富子の縁談 9

4.2 「自殺論」と「非結婚論」についての論争 10

4.3 主人公である「吾輩」の意外な溺死 12

5 夏目漱石の悲観的な見方が生じた原因 15

5.1 夏目漱石個人的な原因 15

5.2 社会原因 15

おわりに 17

注 18

参考文献 19

謝 辞 21

はじめに

『我輩は猫である』という傑作は夏目漱石の最初の小説なので、小説家夏目漱石の誕生を告げた記念すべき作品であると知られている。作品は人間と世相の醜悪、滑稽、無知、愚劣などを辛口の風刺の手法によって当時の社会現状と制度などを厳しく痛烈に批判し、あざ笑うという面白い小説である。小説は斬新な視角とウィットに富んでいる言い方を用いて、大きな反響を引き起こした。 

それゆえ、この作品に対する研究は国内には盛んに行われている。そして、研究角度は種々であり、大勢の研究者は創作風格、風刺についての表現技巧、ナラトロジーおよび当時の社会状況などの視点から小説を詳しく分析した。

中国において、曾志明の「夏目漱石『我是猫』的文体特点」、张玲の「『我是猫』中叙事视角和叙事人称分析」、滕媛媛の「满纸荒唐言,一把辛酸泪——试析『我是猫』独特的主题风格」などの文章は作品の具体的な書き方に着眼し、表現手法、猫を語り手にする原因などを論述した。なお、他の小説と比較すると、異同点をまとめる論文も少なくない。例えば、谢卫平、王茜の「『我是猫』与『哥儿』之比较——以讽刺批判为中心」、水文雯の「『我是猫』与『围城』艺术性比较」、陈丽英の「反讽艺术的异曲同工之妙——试解读『围城』与『我是猫』」などが挙げられる。その他、夏目漱石の悲観的なものの見方をめぐって、学者はいろいろな研究を進めている。例えば、韦立新の『夏目漱石的厌世观刍议』は漱石の一生を中心にして彼が人生に飽きるという気持ちと人生経験の繋がりを説明した。刘丽芳の「从文学作品『心』考察夏目漱石的厌世观」は漱石のもう一つの作品に着眼し、作品の内容と結びつき、彼の厭世という人生観を分析した。邹惠娟は『夏目漱石的死亡观与中国佛道思想』で漱石の死亡についての考えや死亡が生存よりましだという考え方を究明した、さらにこれらが中国の伝統思想との関連を究明した。

日本では、『猫』ひいては夏目漱石に対する研究も今までに現れた。そして研究の視点も様々である。例えば、水川隆夫の「第二章『吾輩は猫である』の時代」、高橋英夫の「表現言語の成立――『吾輩は猫である』」などがある。悲観的なものの見方については筆者の知る限りでは、あまり取り上げられていないようである。

本稿は従来の研究成果に基づき、小説を研究対象として、書いた内容を分析することによって、具体的な三つの出来事を通して、漱石の人生観をに現れた。さらに、夏目漱石の悲観的な見方の主な原因を分析しようと思っている。

1 作品の時代背景

①明治維新の影響:明治維新は19世紀60年代、日本が鎖国政策を放棄し、西洋的国民国家体制を所有する近代国家への政治的、社会的変革である。これも日本資本主義形成の起点であると認められる。改革の過程では伊藤博文が「世界万国の学術」の普及という人生観を主張しているゆえに初代内閣総理大臣に就任してから社会の⎾文明開化」を提唱しながら、全般的に西洋文化を導入する改革を行っていた。西洋文化の輸入に伴い、日本では資本主義の思潮が盛んになってくるだけではなく、人間の生活も様々な面で西洋から影響を受けた。だが、日本は西洋文化の吸収に努めている一方、西洋文化に対する取捨選択を疎かにしてしまった。全般的に受け入れた西洋文化は日本人の古くからの根強く揺るぎない固有文化に巨大な衝撃を与えた。人間は西洋の自由主義、自我意識などの思想を取り込むようになってきた。元来高潔、純粋、団結を求める価値観は物質至上、個人主義を強調する西洋から伝わってきた価値観と相容れなかった。言い換えれば、この時代、日本では西洋文化と固有文化の矛盾が解消されないゆえに、文化、思想などの発展が気運に満ちているのはうわべの現象に過ぎない、実は日本の固有文化と西洋文化が激しく対決していたのである。なお、明治維新後、実業に身を投じる人が大量に現れるにつれ、資本主義が急速に発展し、実業家の財産が増えると同時に一般労働者の貧しさは以前より深刻になってきた。このような雲泥の差があるため人間は道徳、礼儀などを重視しなくなり、かえって金銭を最も大切なものと見なして追求するようになり、拝金思想も世間に騒がしくなってしまった。

②日露戦争の戦勝が日本に与えた影響:1904年から1905年にかけての日露戦争は日本の勝利で終わった。日本はロシアと比較すると、国力の差が大きいが、この戦争を通じて、強敵に打ち勝った。無論、この事実は人々を興奮させた。さらに、相当の日本人は日本がもう強国として堂々と世界の舞台に登場してきたということに溺れていた。だが、一部の日本人はひたすら過去の勝ちを誇ることに浸って知らないうちにふわふわした気分になり、尊大な態度を持つようになってしまった。それゆえ、人々は切実な仕事ぶりを失う一方、世間の風潮もだんだん急進的な傾向を示すようになった。

2 作者の生い立ちと流派

2.1 作者の紹介

夏目漱石は1867年江戸で生まれ、1916年49歳で世を去ってしまった。日本の小説家、評論家、英文学者である。本名は金之助で、俳号は愚陀仏である。

漱石は帝国大学(東京大学文学部)を卒業して松山の愛媛県尋常中学校、熊本の第五高等学校で教鞭をとって1900年にイギリスへ留学することになった。ロンドン留学から帰国後、第一高等学校の教授を務めながら、文科大学の講師として英文学を講じた。それと同時に、雑誌『ホトトギス』に処女作『吾辈は猫である』(以下「『猫』」と略す)を発表し始めた。『猫』の連載は、思いがけず好評を得たゆえに、以後『坊っちゃん』『草枕』などを陸続と発表した。その後、1907年に教職を辞して朝日新聞社に入社してから、入社の第一作『虞美人草』の後『三四郎』『それから』『門』という初期三部作などを書いた。あの時、漱石は自然主義文学を批判し、心理的な手法で近代人の孤独やエゴイズムを追求する気持ちをこめて作品を創作している。また、『修善寺の大患』後は『彼岸過ぎ迄』『行人』『こころ』の後期三部作などを執筆した。1916年、『明暗』の連載途中に漱石の胃潰瘍が悪化しているため、没した。

漱石は日本近代文学の最高峰を築き、そして森鴎外と並ぶ近代文学の巨匠であると考えられる。漱石の作品は想像力に富んで強健な思想性と倫理性を貫くことで、同時代の作家と比べて独自の世界を持った。彼の作品は多くの読者を集めた上に当時から後世ないし今に至るまで、文学界に広く多大な影響を与え続けている。

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