摘 要
夏目漱石是日本近代文学史上著名的作家,具有深厚的汉文学功底,他的作品中充满了中国古典文化因素。《我是猫》是夏目漱石的处女作,也是其成名作,这部作品显示出夏目漱石极高的汉文学造诣。中国传统的儒家道家、思想、典故、神话传说等贯穿全作品。在人物形象上,可以见到陶渊明、诸葛亮、邵雍等的影子。可以说,中国古典文化不仅是夏目漱石文学的支柱,更是基石。
夏目漱石在成名作《我是猫》中,通过引用、化用、临摹、整合等方式,运用大量的中国古典文学材料,丰富了作品的内容,增强了艺术表现力,体现了夏目漱石很高的汉学造诣。将《我是猫》中中国古典文学元素的运用,还原到明治时代,联系夏目漱石的思想和文学观念,可以看到夏目漱石创作的独特美学价值和文学史意义。
本文分别从夏目漱石和汉文学的关系,作品内容和主旨所体现出来的中国古典文学的活用,以及小说中所包含的超然主义与中国历史人物进行比较这四个方面进行分析,从不同角度体现出《我是猫》中的中国文化因子,更体现了夏目漱石极高的文学造诣。
关键词:《我是猫》;夏目漱石;汉文学;中国古典文化
目 次
はじめに 1
1 夏目漱石と漢文学 2
1.1 夏目漱石の漢文学 2
1.2 漢詩と漢詩文への延伸 2
2 その内容表現における中国古典文学の活用 4
2.1 典故の借用 4
2.2 伝説の借用 5
3 その作品主旨における中国思想の出発点 8
3.1 批評基準の仁徳思想 8
3.2 批評発端の天道思想 9
4 作品における超然主義と中国歴史人物 12
4.1 桃源郷への復帰 12
4.2 臥竜窟での隠遁 14
4.3 安楽窩での執念 15
おわりに 17
参考文献 18
謝 辞 19
はじめに
『吾輩は猫である』は 1905 年に発表されて夏目漱石の処女作である、これを契機にデビューした。その作品に流れているユーモアや深い思想性などの原因で、現在でも日本国内で高い人気があるだけではなく、多国の言語に訳され、世界でも大歓迎されている。『吾輩は猫である』は「日本近代文学史上において、類例を持たない、珍しい作品である」[1]と認められ、この小説は様々な中国古典文化を踏まえ書かれている。
夏目漱石文学研究は日本では非常に盛んであり、その研究は数えられないほど多いといっても過言ではなかろう。ここでは、不必要な叙述を省略させていただき、『吾輩は猫である』における中国古典文化についての研究だけを整理させていただく。現在、調査している資料によって、専門的に『吾輩は猫である』中の中国思想をめぐって研究する論文はわずかである。そして、ほとんどの論文は夏目漱石が大学時代で書かれた『老子の哲学』を結びつけ、夏目漱石が老子思想への態度の転換をめぐって展開する。その中で、典型的な論文は重松泰雄の『漱石と老荘禅覚え書』と浅野洋の『小説家たちの起源夏目漱石』である。
本論文は『吾輩は猫である』のテクスト分析を基にして、文献実証、対比、比較など研究方法を使って、この小説の中で出現する中国古典文化を発掘し、それらの中国古典文化の出典を確認したい。これらの中国古典文化が『吾輩は猫である』を研究する材料として、全面的な角度からこの小説の真義と価値を明確したい。
1 夏目漱石と漢文学
1.1 夏目漱石の漢文学
夏目漱石の漢字で書かれた文章の基礎的な技能は非常に深くて、彼は幼少からよく漢籍を読む。夏目漱石は幼少から漢の文学のよい影響を深く受けられて、十分な漢学の基礎があって、夏目漱石の『文学論』、『落第』、『処女作追懐談』等の作品を見れば、当時の教科書が平安時代における貴族に読まれなければならない左国史漢であるという事実は明瞭である。いわゆる、当時の明治時代の人々の思想の根底に流れているのはやはり日本の歴史で長い時間を持っている漢文学である。夏目漱石は典型的な知識型作家で、彼は中国の古典文学を学んで、中国の古典文学を深く研究する。深い文学の教養を備えた後で、やっと彼の小説の作品を始める。そのため、彼の始まったとの作品はとても熟する、独特な芸術の個性がある。『吾輩は猫である』はすぐこのような基礎上で発生したのだ。
1.2 漢詩と漢詩文への延伸
夏目漱石の漢文学素養を言うと、彼の漢詩は一番注目されている。人生のある時期に集中している漢詩を創作する詩人と違い、夏目漱石の漢詩創作は一生を貫き、数多くの漢詩傑作を書き下ろしたが、残念なことに、現在、夏目漱石の漢詩はおよそ208首が残されているだけである。夏目漱石は一生で数多く漢詩を創作し、少年時代から漢詩を作り始め、青年時代の十年間英語と英文学を学習したが、漢詩の創作も停止しない。漢詩の以外に、完全に漢文で書かれる文章の『木屑録』も夏目漱石の漢文学の素養も更にはっきり表現される。『木屑録』の題名は中国の古典文学と関係があるが、漢文で完成する内容もそうである。序文の中で「余児時誦唐宋数千言喜作為文章」[2]と叙述したように、「遂有意于以文立身」[3]という志向を確立した夏目漱石は極めて強い情熱を持ち、途中での見聞逸事、房総半島の美景を描写した。鋸山のトンネルを遊覧した後、夏目漱石は「洞高两丈廣視高減半禺脂造洞口以防其崩壊厳然如關門洞中陰黒渓流浸岩両壁皆湿或滴瀝流下曳屐而歩跫音戞然久而後巳洞路直條過者遥見洞口豁然水光瀲仲」[4]という文でその中の風景を形容する。それが中国古代陶淵明の『桃花源記』の「漁人甚異之。復前行,欲窮其林。林盡水源,便得一山。山有小口,髣髴若有光。便船從口入。初極狭,纔通人,復行數十步,豁然開朗」[5]という描写方法を思い出させやすい。
従って、以上の漢詩文の分析を通し、夏目漱石は相当深い漢文学の素養を持ち、その漢文学の素養で、豊富な文藻が文章で自由に使用され、漢文学から掌握した典故、詩文もよく小説や漢詩の中で見られ、漢学から得た中国の古典思想も夏目漱石の文学観、人生観を影響した。その漢文学知識の蓄積がなければ、そのような優秀な文学作品が出現しないかもしれない。特に、夏目漱石に文壇にデビューさせる処女作の『吾輩は猫である』にも中国古典文学の要素がたくさん使用され、夏目漱石の漢文学の実力を更に表現している。
2 その内容表現における中国古典文学の活用
2.1 典故の借用
夏目漱石は苦沙弥と落雲館の生徒たちの衝突場面を描写する時、少年時代から愛読した『左伝』の「鄢陵之战」典故の描写技法を借用した。小説における両方の衝突原典は次のようである。
臥龍窟主人の苦沙弥先生と落雲館裏八百の健児との戦争は、まず東京市あって以来の大戦争の一として数えてもしかるべきものだ。左氏が鄢陵の戦いを記するに当たってもまず敵の陣勢から述べている。古来から叙述に巧みなる者は皆この筆法を用いるのが通則になっている。[6]
歴史に前例がない第一戦争と呼ばれる左丘明の創作方法は夏目漱石に借用され、最初から、写実の手法で蜂の陣立てを持っている落雲館の生徒たちの気勢を描写する。それで、その生徒たちの任務が苦沙弥を戦闘線内に誘致することを完成した。それから、苦沙弥の敵としての生徒が陣地を攻略していることや、有利な地形を占めることも、攻城の戦術も、強いて生徒たちが戦争の局面を判断したことでも詳しく叙述した。結局、誰でもこのいわゆる戦争の結果に注意しなく、反対に、その対立双方は戦争中の表現に関心を持っているようになる。
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