摘 要
中国的七夕源于中国家喻户晓的“牛郎织女”的神话传说,而日本的七夕则是在奈良时代由中国传入,与日本原有的棚機津女的传说结合而成的。虽然两国的七夕起源有着相同之处,但发展至今已成为两个性质不同的节日。本论文主要从起源、发展历程以及现状来分析两国七夕的异同点,从而对比中日两国文化上的差异,并通过分析日本对七夕的传承和发展,为我国传统文化的发展提供借鉴。日本的七夕随着社会的变迁而发展出具有各地特色的七夕文化,而在中国,七夕却仅成为情人节的代表词。从日本七夕的发展以及现状中,可以看出日本国民十分重视保护七夕这样的传统文化,并通过各地特有的方式来加以传承。因此,为了发展七夕传统文化,每一位中国人都应树立保护传统文化的意识,并应试着通过新形式来传承传统文化。
关键词:中日比较;七夕;传承;启示
要 旨
中国の七夕というものは誰もが知っている中国の「彦星と織姫」の昔話によるものだが、日本の七夕は、奈良時代に中国から流入した七夕と日本独自の昔話である「棚機津女」が融合してできたものを指す。両国の七夕の起源は同じところがあるが、それぞれの発展を遂げ、今日では性質の異なるものになってしまっている。この論文は主に「起源」、「発展の歴史背景」及び「現状」の観点から両国の「七夕」の違いを分析することにより、両国の文化の相違点を垣間見ることとする。そして、日本の自国七夕においての発展と伝承を分析し、鑑みることにより、我が国の伝統文化の今後を考え、参照とする。社会の変遷とともに、日本では各地特有な七夕文化が発展されてきたが、中国の七夕は恋人の日だけになってきた。日本七夕の発展と現状から見ると、国民が七夕のような伝統文化を非常に重視し、自分特有の方法で伝統文化を伝承してきていることが分かる。そのため、七夕文化を発展するために、中国人一人一人は伝統文化を守る意識を持ち、新しい方法で伝統文化を伝承すべきだと思っている。
キーワード: 中日比較;七夕;伝承;示唆
目 次
1 はじめに 1
2 七夕の起源 3
2.1 中国の七夕の起源 3
2.2 日本の七夕の起源 4
2.3 中日七夕起源の異同 5
3 発展の歴史背景と現状 6
3.1 中国の歴史背景と現状 6
3.2 日本の歴史背景と現状 7
4中国への示唆 8
4.1国全体が力を合わせて、協力すること 8
4.2マスコミやニューメディアの影響力を生かすこと 9
5終わりに 10
参考文献 11
謝 辞 12
中日七夕についての比較研究
1 はじめに
七夕という祭りは中国古代の四大伝説の一つとして知られ、織姫と彦星という中国古来の昔話に由来している。アジアの国々の中には、中国文化の影響を受けた国が多く、今の七夕は中国、日本、北朝鮮及びベトナムなどの国の共有な祭りとなっている。中国では、旧暦の七月七日の夜、女性たちは織姫様が自分たちに器用な手をもたらしてくれることを祈ったことから、七夕は「乞巧」とも呼ばれる。「乞」は「請い求める」のことで、「巧」は「手際のいい、上手い、器用」のことである。織姫と彦星の伝説と融合し、恋を象徴する祭りになってきた。今は中国の恋人の日と言える。韓国の「七夕」は中国が起源となっている。韓国文学学者の崔南善著の「朝鮮常識」によれば、七夕は中国の伝統習俗で、後に韓国に伝来してきたものだと記され、主に家族や友人の平穏、幸せを目的としている。地域によっては豊作を祈願するための畑祭も行なっている。ベトナムでは、中国人が七夕祭で供物として用いられるものは中間南側の風習に従い、七夕伝説と深く関わりのある供物も用いられる。日本と中国は古来、一衣帯水の隣国である。地理的な位置が近く、古代から両国は政治や経済など各方面の交流を行なっていた。そのため、両国は今でも相似している点がいくつもある。文化の面からみれば、歴史的な繋がりがあることも珍しくない。しかし、時間がたつにつれて、歴史的な繋がりがあることでも大きく変貌してきた。日本の七夕は、奈良時代に中国から流入した七夕と日本独自の昔話である「棚機津女」が融合してできたものである。両国の七夕は起源こそ同じであるが、それぞれの発展を遂げ、今日では性質の異なるものになってしまっている。
日本と中国の七夕祭りについての先行研究も様々な成果が出ている。例えば、徐艶(2012)氏によると、「本質的に異質なこの二つは、日本の七夕は「織機で布を織る女性」という点においてのみ一致していることにより、これまで多彩に展開し発展してきた。」と主張している。文化の融合は今世界中の紛争にも役に立つと指摘されている。龚海霞(2014)氏の「中日七夕の比較研究」によると、中日の七夕神話について、両者相似しているところがあるが、やはり、本質で違いがあるということが分かった。そして、「古代における中日七夕節風習を比較したとき、中国文化の影響を受け入れたため、日本の七夕行事の内容で、中国と同じ部分が多かったのである。しかし、その中にも、大きな区別がある。つまり、日本人はやはり、本土の固有信仰、風習を守り、日本だけに属する特別な七夕行事を作った。」ということも述べられている。この論文は先行研究を踏まえて、主に七夕の起源、発展の歴史背景及び現状等の面から両国の七夕を考察することにより、両国の文化の繋がりと相違点を探ろうとする。以上の内容に基づいて、中国の伝統文化の現状と結びつき、伝統文化をいかに伝承、保存すれば良いかについて論じたい。
2 七夕の起源
2.1 中国の七夕の起源
民間でよく知られる七夕の恋物語は以下のように語っている。七夕というものはやはり、彦星と織姫の伝説と関連し、とても 美しく、長く語り継がれており、我が国の四大民間恋物語のうちの一つになっている。伝説によれば、昔々、南陽城西牛家庄にとても賢く、質実な若者がおる。両親が早くなくし、兄夫婦とともに暮らしていた。しかし、兄嫁の馬氏がとても性悪な女で、彼に無理矢理な仕事を押し付けたりと虐待していた。ある日、天界にいた織姫は他の天女たちと下界に降り、川で戯れていた。たまたまその場に居合わせた彦星は年老いた牛の助けにより織姫と知り合い、2人はすぐに恋に落ちた。しばらくして織姫は内緒で下界に降り、彦星と結婚した。このことは天界に知られ、織姫は王母様に天界へと連れていかれてしまい、王母様は髪飾りを振りかざし、彦星と織姫の間に天の川を作ってしまった。川に隔てられた2人は対岸で悲しそうに泣いていた。すると彼らの愛に感動したカササギは仲間を連れて2人がまた会えるよう天の川に橋を作った。流石に打つ術を無くした王母様は七月七日のいう日に2人がカササギ橋で会うのをついに許したのである。それから、旧暦の七月七日になると、彦星と織姫がカササギ橋で会うということで、女性たちは夜空の下で、器用な手と円満な婚姻を祈り、七夕の風習になってきた。
実は、織姫と彦星の伝説は「古詩十九首」という文献の中で現れたのである。「古詩十九首」の中の詩は漢代で作られ、中国最初の詩集「文選」に収録されたのである。その中の第十首は「迢迢牵牛星」という詩で、本文は「迢迢牵牛星,皎皎河汉女。纤纤擢素手,札札弄机杼。终日不成章,泣涕零如雨。河汉清且浅,相去复几许?盈盈一水间,脉脉不得语。」である。おおよその意味は「遥か彼方にチラつく彦星と織姫星を眺めてごらん。袖から透き通る肌が垣間見えるはずだよ。透明感あふれる手で織物を紡ぐ音にも耳を澄ませば聞こえるはずさ。1日かけても絹を完成できずにいたから、涙が露のように頬から溢れる。天の川は清くて浅いが、対岸までどれくらいだろうか。2人を隔てるものは川一つしかないが、言葉を交わすことができず、見つめ合うことしか2人にできることはない」ということである。彦星と織姫はもともとは星座の名前であるが、彦星は銀河の東側に位置しており、織姫は彦星の真正面で、銀河の西側に位置している。中国の彦星と織姫の民間伝説の起源がとても古く、春秋時代の「詩経·小雅」の中に、「或以其酒,不认其浆;鞙鞙佩璲,不认其长。维天有汉,鉴亦有光;跤彼织女,终日七襄。虽则七襄,不成服章;睨彼牵牛,不认服箱。东有启明,西有长庚,有捄天毕,载施之行。」という詩があり、大体の意味は「そらにある織姫という星は織機のそばに座っているが、織る気は全然ない。なぜなら、銀河の向こうの彦星が気になっているからだ。」ということである。それから見れば、西周時代から彦星と織姫の恋についての想像が出てきた。西漢になると、「春秋元命苞」と「淮南子·俶真 」の中から織姫も出てきたのである。「淮南子」の中で、「若夫真人,则动溶于至虚,而游于灭亡之野……臣雷公﹑役夸父﹑妾宓妃,妻织女,天地之间何足以留其志!」という文があり、その中、織姫は真人という神の妻として現れたのであるが、女神として書かれたのである。曹丕の「燕歌行」と曹植の「洛神賦」と「九咏」の中の織姫と彦星はすでに夫婦として現れたのである。「九咏」によると、「牵牛为夫,织女为妇。织女牵牛之星各处河鼓之旁,七月七日乃得一会」という文が書かれている。それが当時、最も明らかな記載だと言われている。東漢の「迢迢牵牛星」と魏朝の「九咏」から見ると、彦星と織姫の物語は大体決まっていたのである。このように、文学作品と民間伝説も中身が歩み寄ってきていた。東晋葛洪の「西京雑記」によると、「汉彩女常以七月七日穿七孔针于开襟楼,人俱习之」ということが記載された。それから見れば、七夕は漢代から行われてきた。その後の詩の中にも七夕についての記載が多くなっている。それが中国の七夕の起源である。
2.2 日本の七夕の起源
日本の七夕は中国が起源となっている。中国の七夕は奈良時代に、日本に伝わり、元からあった棚機津女の伝説と合わせて生まれたのである。「たなばた」の語源は最初、「古事記」で現れたのである。棚機津女は川辺で建てた棚の中で織りながら神が来るのを待っている少女である。彼女が織っているのはその神の服である。そして、少女と神が夫婦になったと言われる。「日本書紀」によると、「天孫降臨の時、大山祇神の娘丰吾田津姬は川辺で服を織っている。当日、天孫は丰吾田津姬と夫婦になり、それに、あの夜、丰吾田津姬は妊娠したのである。」ということが書かれたので、丰吾田津姬は棚機津女の伝説のヒロインであるのもわかる。実は、「日本書紀」の中で日本の皇室といわれる天照大神が神の服を織ることも記載されたのである。そこから見ると、天照大神も棚機津女の姿があるという説もある。そのため、古代日本の各地は毎年、海辺または川辺で棚を建て、村の中に一人の少女を選び、棚の中に神の来るのを待っているというような風習があった。そのような儀式は神秘的なので、待っている少女も水の神になってきた。「棚機津女」もだんだん省略され、「棚機」になったのである。
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