連雲港の徐福研究から見る中日における徐福文化の伝承从连云港的徐福研究看中日徐福文化的传承毕业论文

 2021-04-01 11:04

摘 要

以《史记》为代表的正史对徐福东渡有着明确的记载,中日两国许多地方广为流传着徐福采药未归定居日本的传说。上世纪八十年代连云港市赣榆县的一个原名“徐福村”后演变为“徐阜村”的自然村引起有关人员的注意,后来经专家考证,这就是史书记载的东渡日本的第一人—徐福的故乡。 为此连云港市开展了一系列深入持久的研究工作,掀起了东亚徐福研究的热潮,主要表现为,徐福研究社团纷纷成立,徐福研讨和节庆异彩纷呈,兴建徐福人文景观,徐福论著大量出版。笔者解读了徐福精神的内涵,并就弘扬徐福东渡精神提出:中日两国应当携手建立网络交流平台;整合徐福文化资源发展旅游业、文化产业,借徐福之精神深化中日友好,实现全方位的合作共赢。在深入徐福文化研究的同时,逐渐产生了对《西游记》文化的诞生的思考,李宏甫提出大胆推想:徐福文化孕育“西游”文化!

关键词:史记;徐福研究;合作;西游记

目 次

  1. はじめに 1
  2. 連雲港市赣榆県における徐福の故郷の発見と考証 2
  3. 連雲港の徐福研究と影響 4
    1. 徐福考古ブーム 4
    2. 徐福関連施設の建設 4
    3. 徐福祭りとシンポジウム 5
    4. 徐福関連著作 5
  4. 徐福精神の伝承について 6
    1. 徐福精神の内容 6
    2. 徐福文化の伝承について 7
  5. おわりに 10

1 はじめに

日本遠征を成し遂げた古代の英雄である徐福の故郷に、私は生まれ育ち、子供の頃から徐福の話を聞いて育った。それゆえ、一貫して徐福に関心を持っている。そこで、これから議論を始めるにあたり、まず徐福について説明する。徐福は紀元前 3 世紀の中国秦朝時代の著名な方士(神仙術師)であり、また世界航海・探検史において最初に名前が出る、偉大な航海家である1。『史記』の作者である司馬遷によると、2000 年以上前に種類豊富な穀物と古典書や文物、多数の技術者、それに数千人の少年少女を伴って、不老不死の薬を求め、彼は旅立った。彼は秦の始皇帝の専制的な暴威を恐れており、数次にわたる東方航海にもかかわらず皇帝の求める不老不死の薬草が見つからないという状況において、広い平原(のち、日本列島であることが証明される)に定住することを選択した。徐福は東方へと航海し、彼が持ち込んだ中華文明は日本の土着文明と交わって共生し、何千年もの間縄文時代で停滞していた日本列島が弥生時代に向かう契機となった。それは日本に古代文明の夜明けをもたらした一筋の光にして、平和的貢献の旅行であり、意義は計り知れない。彼の偉業は、イタリア人コロンブスのアメリカ大陸到達には 1700 年以上、我が国の鄭和の

南海遠征には 1600 年以上、先行している。古代より、徐福研究は文芸家や歴史研究者にとって馴染み深いものであった。しかし現在ほど徐福文化の高揚と伝承が人々の関心を呼び覚まし、重要な研究対象となっている時期はない。そのきっかけとなったのが前世紀 1980 年代の徐福村発見である。では、徐福の連雲港市カン楡県は徐福研究に対していかなる貢献ができるのか、今後徐福文化の伝承はいかにして続行するべきか、拙稿は以上の問題について浅薄な私見を提示するにとどまる。

1.张良群.徐福故里揭谜(续集)[M].1998

2 連雲港市赣榆県における徐福の故郷の発見と考証

20 世紀 1980 年代の初めに、中国政府は地名の標準化と規範化を目指し、各地の地名を全面的に調査した。それは中華人民共和国成立後最初のものであり、調査員らは常に民衆を訪問し、手がかりを求め、資料を調査し、地名の起源を 遡る必要があった。江蘇省カン榆県の調査員らが慎重な地名調査によって金山 郷の「徐阜村」の原名が「徐福村」であることを発見した。その後、70 歳過ぎの老道士である徐永成の話により、当時の秦始皇がそこに南巡した事実、徐 福の上奏の内容、また日本派遣の事情が判明した。この事は地名調査員・張慎 良の注意を引き起こした。清朝乾隆年間の『張氏家系図』と『王氏家系図』に

『壹経堂・韋氏支家系図』を調べ、『金山における公社徐阜村名調査の報告』という地名の調査報告を、張慎良は著した。調査報告によれば、徐阜村が以前

「徐福村」と呼ばれており、有名な方士の徐福がいたことが分かった。徐福は博学で、顔が広く、占いに優れており、よく人民の病気を治し救難活動を施した。

これらの功績により、徐福は秦の始皇帝に呼びつけられ、長生きの薬を製錬するよう求められた。徐福はこれが不可能と分かっており、海の彼方でのみ仙人の薬が取れると嘘をついた。始皇帝は様々な分野の技術者と五百人の少年少女を付き添いとして随行させた。徐福は薬など取れないとはっきり知っていたが、それが君主を欺く罪であることも分かっていたはずである。そこで、戻らないことを選んだ。徐阜村は徐福を記念するため名づけられた。報告書は同時に、徐阜村の歴史が非常に長いことも指摘した2。この直筆の調査レポートがきっかけとなり、2000 年余り未解決であった徐福の故郷の謎は徐々に明らかになってきた。

1984 年の 4 月 18 日に中国の『光明日報』歴史学版に、羅其湘・汪承恭共著の論文―「秦の時代に日本へ渡る徐福の旧跡の発見と考証」が発表された、この論文は初めて「江蘇省のカン楡県の徐阜村は徐福の故郷である」と世間の人に公表した。彼らの論文は『史記』などの歴代史書典籍や宋代以来の連雲港の地方誌、民間の家系図などの資料及び文化財などの徹底的な分析に基づいて、

2.张良群.徐福东渡[M].p.43

「江蘇省カン楡県徐阜村は徐福の故郷であるか否か」、「徐福が日本へ渡るのは秦始皇の東巡の結果であるか否か」、また「徐福が日本へ渡るに最も良い出航点はどこか」といった 3 つの問題について、論証を行った。当該論文は『史記』中の「徐福は斉国の瑯琊人だ」という記載と、郭沫若が編集した『中国史原稿地図冊』、および譚其骧編『中国歴史地図集』の記載を引用し、明らかにカン榆県が戦国時代の齊(のち秦王朝により瑯琊郡に改組)に属することを指摘した。また秦始皇帝陵西側の懲役囚墓で出土した瓦文である「カン揄距」・

「カン揄得」(秦漢時代に揄,榆の双方で表記された)により、カン楡県制が秦朝から始まることが分かった。こうして、「カン楡県が徐福の故郷である」との仮説が史籍の「徐福が齊人なのだ」という記述と完全に一致し、事実であることが証明された。徐阜村で収集した多くの漢代布紋様板瓦によって、徐福村が漢の時代の遺跡に属することが証明された。これは「徐福村は徐福が日本へ渡ってから、現地の人民が彼を記念するために徐福村と名づけたものである」という民間の伝説と一致する。論文は嘉慶元年『カン楡県誌』、嘉慶 16

年『海州直隷州志·建置考』、光緒 14 年『カン楡県誌』を列挙し、「徐福村」、

「徐福社」の記録があることを明らかにした。また徐阜村の名は乾隆 10 年民

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