元寇についての研究―高麗王朝の役割毕业论文_日语毕业论文

元寇についての研究―高麗王朝の役割毕业论文

2021-04-01更新

摘 要

公元十三世纪,在日本的镰仓时代中期,当时统治东亚大陆的元帝国及其属国高丽两次侵略日本(日本方面称之为“元寇”事件)。现在中日两国至今也有很多关于“元寇” 事件的研究。

十三世纪初的高丽与蒙古为敌,前后一直战争了将近半个世纪。然后之后的高丽突然改变了其外交路线,成为了蒙古的忠实盟友。在“元寇”事件中,作为元帝国的同盟,高丽在对自己没有益处的前提下,大力支持了元对日本发起的侵略战争。这从常理来看是相当奇怪的。本文将针对这个疑点,通过分析十三世纪高丽国的所处的国际环境,来解明其外交手段。

关键词:高丽 蒙古 日本 元寇

目 次

はじめに 6

    1. 問題の提起 6
    2. 先行研究 6
    3. 研究目的 7
    4. 研究方法と手順 7

本論 8

第一章 高麗と元 8

1 . 1 高麗とモンゴルの戦い 8

  1. . 2 高麗王室の選択 9

第二章 元寇の侵略 12

2. 1 クビライの野心 12

2. 2 高麗の腕前 13

  1. 3 戦争の導火線 1 4
  2. . 4 日本への遠征 1 6

第三章 戦争の結果 18

  1. 1 元の失敗、日本の損失 1 8

3. 2 高麗王国の生存知恵 1 8

終わりに 1 9

参考文献 20

謝辞 21

はじめに

問題の提起

十三世紀の初期、チンギスハン1はモンゴル高原の遊牧民を統一して、巨大なモンゴル帝国の原形を創設した。そして中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第五代皇帝のクビライ2は1271年に、連邦国となった、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国3と改称した。クビライが支配していた時期の元王朝は東の島国日本を狙って、属国の高麗国と一緒に日本に侵略した。その侵略は二度あり、1274年の文永の役と1281年の弘安の役である。

文永・弘安の役で、本来関係のない高麗国は他国間の戦争に巻き込まれた。これは要 地である朝鮮半島に占居する高麗王国の悲劇である。受身でも、損害されても、朝鮮半 島の人たちは乱世で強く生きてきた。その歴史から、朝鮮民族の優れた外交技術がはっ きり見える。これも厳しい国際環境で得た朝鮮式の生存のための知恵である。現代の国 際情勢を想像すれば、グローバルな文明交流と一緒に存在する各国間の複雑な行き来も、当時高麗が直面した状況と似っている。しかし、現代の国際環境の複雑さは古代世界よ り更に深刻だとも言える。その時期の高麗王国の歴史を研究すれば、現代の外交策上に 良い例を提供できると思われる。

    1. 先行研究

元の侵略はどのように日本に影響を与えたのか、森平雅彦さんの「モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島 (世界史リブレット)」にもそう言った、「『モンゴル襲来』といえば、現代の日本国で生まれ育った者の多くが、鎌倉時代、九州北部を元軍が襲った一二七四年と八一年の戦役、いわゆる文永・弘安の役を想起することだろう。直接の戦闘は比較的短期間でおわったが、多くの住民や防衛にあたった武士たちの生命をうばい、『神風』に象徴される神国思想の高揚や、戦後処理が難航するなかでの鎌倉幕府の衰亡など、その後の日本列島社会の歩みにさまざまな影響をあたえたことは、よく知られている。」

1モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206 年 – 1227 年)。

2モンゴル帝国の第 5 代皇帝(在位:1260 年 – 1294 年)。

31271 年から 1368 年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。

その軍事事件の詳しい経緯は佐藤和夫1さんの「水軍の日本史-下-」の第七章にも詳しく書かれてある。

研究目的

「元寇」事件に、侵略軍の主力は元軍だったが、高麗軍も介入した。当時の高麗はどの原因で日元両国の戦争に巻き込まれたのか、そしてその時の東アジアの国際ステージにどのような役を演じたのか、本稿はこの点について歴史を整え、「元寇事件」中の高麗王国の役割を分析する。最後に、分析結果をもとに、現在の東アジアの国際環境を関連させ、有意義な参考を求める。

研究方法と手順

今回研究しているのは高麗及び朝鮮相関の歴史。日本語専門の学生として韓語が分からなく、直接韓国の資料を読めないが、中国にも日本にも韓国史を研究している名家がたくさんいる。日本の森平雅彦2教授は朝鮮史専攻、その相関の著作を何本書いた。中国の邵毅平教授の『朝鲜半岛:地缘环境的挑战和应战』も、朝鮮半島の国際問題に対して

独特の意見を説いたのだ。これから中日両国の文献を拝見する以上、東アジアの歴史を

全面的、時間の順で把握する。同時に、近代及び今現在東アジアの国際情報を収集し、時代の発展を昔前の歴史と対照し、比べる。

1日本史研究者、特に水軍史。福島県白河市生まれ。1958 年早稲田大学文学部日本史学科卒業。

2東洋史学者、九州大学准教授。1972 年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。2006 年九州大学人文科学研究院助教授、07 年准教授 2011 年「高麗・元関係の基本構造 モンゴル帝国の覇権と高麗王家」で東大文学博士。専攻、朝鮮史・東アジア交渉史。

本論

第一章 高麗と元

    1. 高麗とモンゴルの戦い

「元寇」事件を話す前に、高麗とモンゴルの連軍の根源を深く推究する必要がある。

1225年のことである。この年、高麗はモンゴルと国交を断絶した。モンゴルはチンギスハン、高麗は高宗1、日本では北条泰時2が鎌倉幕府の第三代執権者に就いた翌年のことであった。

高麗国は、チンギス・ハンの時代からモンゴルと交渉をもっていた。1218年、旧金朝支配下のキタン3軍団のうち独立志向派の勢力(「黒契丹」と呼ばれた)が、満州4を経て高麗国に乱入した。それを、モンゴルと高麗が協同で撃滅した。始まりは悪くなかった。しかし、それ以後は、複雑な応対の歴史であった。単純なモンゴルの侵攻という図式では、描けない。実は、高麗は内外から、大きな変化の時に差し掛かっていた。「国内では、武人たちが台頭していた。高麗王室である王氏は、次第に名目だけの存在にまつりあげられていた。状況はちょうど、鎌倉幕府が出現し、京都の王朝政権と公武の権力が並立するのに似っていた」5。ただし高麗では、都の開城6で両者が共存していた。その点で、平清盛の時代の日本列島と類似していた。半島と列島の最大の違いは、半島は大陸と地続きであったことである。それによって、半島は大陸の嵐をもろに被ることが多かった。「モンゴルの嵐」も例外ではなかった。

1224年の末、モンゴル側の使節が高麗の地で殺害された。その後の七年間、信使の往来が絶えた。モンゴルの新帝となったオゴデイ7は、かつての黒契丹鎮定時における旧約の履行を迫るために、サルタク・コルチを将とする一軍を高麗国に向かわせた。サ

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