摘 要
中文摘要
在戏剧舞台上,日本歌舞伎和中国京剧这两种传统戏剧舞台形式,既反映了亚洲文化的共性,又体现了各自文化的个性精髓。
本文从日本歌舞伎和中国京剧的起源和发展写起,重点介绍了两者各自的音乐特色以及文化特色,在其艺术价值上进行了一定的探讨,最后分析了日本歌舞伎和中国京剧在当今社会的发展现状,如何继承和发展这两种剧种是我们所有人需要思考和重视的关键。
本文深入分析比较了两者的共性和个性,这对于研究和了解不同民族、不同国家、不同地域间的文化形态、艺术观念、审美价值取向也具有重要意义。
关键词:歌舞伎;京剧;传统音乐;艺术价值
目 次
はじめに 1
- 日本歌舞伎と中国京劇の形成と発展 2
- 日本歌舞伎の形成と発展 2
- 中国京劇の形成と発展 3
- 日本歌舞伎と中国京劇の各自の音楽特徴 5
- 伴奏を主とする日本歌舞伎音楽 5
- 唱腔を主とする京劇音楽 5
- 日本歌舞伎と中国京劇の各自の文化特色 7
- 日本歌舞伎の文化特色 7
- 中国京劇の文化特色 8
- 日本歌舞伎と中国京劇の現状 11
- 日本歌舞伎の現状 11
- 中国京劇の現状 11
おわりに 13
参考文献 14
謝 辞 15
はじめに
中国京劇と日本歌舞伎は、共に数百年の歴史を経て、アジアを代表する演劇に発展してきた。表現形式と表現理念において共通点を持っているが、本質的な違いがある。共通点は共に東方文化であるほか、日本の受容性文化性質と関係がある。外来文化を前向きに取り入れる文化受容性のため、歌舞伎と京劇の本質的な違いを形成し、それぞれの演劇の独特な個性と性格を表現したのだと考える。本文は歴史発展、音楽及び文化特色について比較することを通じて、差異の中から芸術発展の法則を探り、新時代発展における意義を理解したい。
1 日本歌舞伎と中国京劇の形成と発展
日本歌舞伎の形成と発展
歌舞伎は 1603 年に、日本関西地方の島根県の出雲大社の巫女阿国が「念仏踊り」1をはじめたことをきっかけに誕生したとされている。この踊りは女性が男装するのが特徴で、物語が簡単で、宗教の色合いが濃く、演劇される歌は当時流行っていた「今様」2であった。
阿国が歌舞伎をはじめた後、遊女歌舞伎が現れた。遊女歌舞伎が終わる前に若衆歌舞伎は既にあった。ただ、若衆歌舞伎が本当に発展したのは遊女歌舞伎が禁じられた後のことであった。この時期の遊女歌舞伎と若衆歌舞伎とは類似する点が多く、芸術性がそれほど高くなく、ほとんど踊りだけで、本当の演劇とは言えない。しかも売春もしており、武士との間の関係が曖昧で、社会に混乱をもたらしたこともあった。
当時日本社会における主要娯楽場となった歌舞伎は、幕府から禁じられても発展することが止まらなかった。役者の若い男子を成年男子に変えることで、
「野郎歌舞伎」を誕生させた。このときの歌舞伎は踊りではなく、対話が主となった。
17 世紀 80 年代、元禄時期に入った後、歌舞伎が次第に成熟しはじめ、写実を主とした。この時期の歌舞伎は、演劇文学、演技、舞台美術のいずれの面でも高いレベルに達し、後の演劇の発展にしっかりした土台を築いた。
元禄歌舞伎は「あらごと」と「わごと」の 2 つの流派があった。「あらごと」は東京が起源地、初代団十郎が作った江戸歌舞伎である。歴史にある武士の物語や、宮廷貴族や武士たちの日常生活の表現を主とし、上品そうな対話と誇張な動きが演技の特徴である。一方、「わごと」は大阪と京都周辺が発祥地、藤十郎が創始した上方歌舞伎である。民間社会の男女の恋物語及び江戸平民階層の生活の描写を主とする。庶民的な対話が特徴。この二大流派は今日まで続いてきた。
1念仏踊りとは、念仏を唱え、踊る日本の伝統芸能で、さまざまな様式で全国に分布している。
2今様は、日本の歌曲の一形式。今様とは現代風、現代的という意味であり、当時の現代流行歌という意味
の名前であった。
元禄歌舞伎は役者の形においては、男性が女性に扮する「女方」の演技特徴が定着した。この演技は 300 年の歴史を経て、現代の歌舞伎舞台まで受け継がれた。この時期の歌舞伎は日本の歌舞伎発展に大きな貢献をし、堅実な基礎を築いたと言える。
中国京劇の形成と発展
京劇は中国の「国粋」と呼ばれ、200 年の歴史がある。京劇という名を初めて使ったのは清代光緒二年(1876)の《申報》だったが、歴史上、皮黄、二黄、黄腔、京調、京戯、平劇、国劇などの名称もあった。清朝乾隆五十五年(1790 年)、四大徽班が北京に入り、昆曲、漢曲などの劇と 50~60 年間にわたった融合の末、中国最大の演劇、京劇になったのである。演目、芸術家、劇団、観衆の多さと影響範囲の大きさのいずれから言っても、断然トップである。
京劇の前身は清朝初期に江南地区で流行していた徽班の演じる唱吹腔、高撥子、二黄であった。徽班の流動性が強いため、ほかの演劇種目との接触が頻繁で、唱腔(節回し)において互いに浸透し合った。そのため、発展する過程のなかで、多くの昆曲を取り入れた。ほかに、啰啰腔などの雑曲もあった。清朝乾隆五十五年(1790 年)、高朗亭(名月官)をはじめとする一つ目の徽班(三慶班)が北京入りし、乾隆帝の 80 歳誕生祝いで演じ。その後も多くの徽班が北京に入ったが、有名なのは「四大徽班北京入り」と言われる三慶、四喜、春台、和春の 4 つであった。
乾隆、嘉慶年間、政治が安定し、経済が繁栄し、各演劇の芸人が集まる北京の舞台は昆腔、京腔、秦腔の三大演劇種目が三足鼎立の状態を呈した。徽班が北京入りした後、ほかの演劇と融合する伝統を発揚し、秦腔(一部の京腔を含む)の演技や、昆曲の演目を導入し、芸術性を急速に高めた。京劇が正式に成形したのは道光二十年(1840 年)以降のことだった。京劇の伝統演目は千以上もあり、良く演じられるのが 3~400 もあると言われている。題材は歴史、政治と軍事などの分野に及び、物語は歴史演義と小説からの取材が多い。長い芝居のほか、一幕だけを演じるものも多くある。
同治六年(1867)、京劇が上海に伝われ、たちまち北京以外の京劇中心地となった。京劇は上海に入る前の咸豊十年(1860)、劇団の流動により全国各地に広
がっていた。1919 年、梅蘭芳が劇団を率いて日本に赴き、はじめての海外公演を実現した。その後、世界各地は京劇を中国の演劇学派と見た。
日本歌舞伎と中国京劇の各自の音楽特徴
伴奏を主とする日本歌舞伎音楽
今日の日本伝統音楽のなかで、声楽は極めて重要な地位を占めている。日本自身の音楽である「邦楽」1のなかに、声楽は大きな割合を占めている。歌舞伎伴奏に使われる日本伝統音楽、声楽も主導的な地位にある。歌舞伎に使われる日本伝統音楽の種類が非常に多く、範囲も非常に広い。歌舞伎に使われた音楽は、三味線音楽の大半、長唄音楽、浄瑠璃音楽などがある。つまり、日本伝統音楽の 80%ほどが歌舞伎の伴奏に使われた。しかし、中国の京劇のなかの唱腔と大きく違うのは、歌舞伎では、京劇のような唱腔と動作が融合した演技ではなく、「歌う」ことが重要ではないのである。そのため、役者が自ら歌うことがほとんどないのである。せりふを言うことがより重要だが、一番重要視されるのは、実は役者の動作なのである。歌舞伎座に演技を観賞する観客は、「歌う」ことでも「せりふ」を言うことでもなく、役者の動きによる芸術を見ているのである。役者の動きがどうなのかは演技のレベルの高さを評価する基準である。
しかし、だからと言って、歌舞伎音楽を論じるとき、「歌う」ことに言及しなくてもいいというわけでは決してない。歌舞伎の「歌う」ことは伴奏の合唱団や楽隊の役割である。でも、あくまで伴奏なので、歌舞伎全体から見ると、副次的な地位にあることが間違いない。各流派の音楽が違っているため、歌舞伎研究のなかの重要対象となっている。歌舞伎役者は京劇のように、唱腔に練習を重ねる代わりに、動作に磨きをかけるのである。
唱腔を主とする京劇音楽
中国の京劇音楽は、台本文学、演技、舞台美術、服装とともに、京劇の芸術を構成しているのである。京劇の音楽は京劇芸術の根本と基礎である。京劇音楽の唱腔、セリフ、曲牌、打楽器などの 4 つの部分は、京劇芸術全体を貫く。うち、京劇の唱腔は最も重要な地位を占める。役者が歌いながら演じるという表現形式が中国演劇芸術の大きな特徴であり、京劇芸術の重要な表現手段でもある。従って、京劇を論じるとき、まず言わなければならないのは唱腔である。
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