从《斜阳》来看太宰治的绝望与希望毕业论文_日语毕业论文

从《斜阳》来看太宰治的绝望与希望毕业论文

2021-04-03更新

摘 要

太宰治是日本著名作家,其无赖派的写作风格对日本文坛影响深远。战后年代创作出来的小说《斜阳》更是太宰治的代表作。本文拟通过对《斜阳》的分析来研究作者太宰治,反映其在当时的社会大背景下所传达的思想,更进一步深化对太宰治以及其文学作品的理解。

《斜阳》是以当时的社会状态为创作源头的小说。本文通过对登场人物的逐一分析,来寻找作者的创作目的。将作者的创作背景和创作目的结合起来,更深层的挖掘小说的意图和作者本人的思想。

《斜阳》中的男性——直治,上原都过着堕落的生活并走向灭亡。另一方面女性——和子则勇敢的生活下去。小说表面上看似颓废,但实际上却是痛斥社会,高举反俗的旗帜。

关键词:战后;人物分析;贵族;道德革命;《斜阳》

目 次

要旨 i

摘要

はじめに 1

1.先行研究 3

1.1研究目的と方法 4

2.人物像の分析 6

2.1お母さまの人物像 6

2.1.1ほんものの貴族 6

2.1.2貴族の没落 6

2.2直治の人物像 7

2.2.1見せ掛けの不良 7

2.2.2内心の矛盾 8

2.3上原の人物像 8

2.4和子の人物像 9

2.4.1革命者への道 9

2.4.2道徳革命 10

3.斜陽の上昇志向 12

終わりに 13

謝辞 15

参考文献 16

はじめに

『斜陽』は敗戦の翌々年、昭和二十二年七月から十月まで『新潮』に連載された作品である。三十歳ごろの女性、かず子の手記形式がとられている。作者は日本の無頼派という文学流派の代表作家の太宰治である。無頼派は太平洋戦争後、近代の既成倫理全般への批判に基づき、退廃的な作風を示した一群の作家たちを総称する呼び方である。

大地主の子として生まれた太宰治は無頼派という文字が指し示したように、生涯四度の自殺未遂を繰り返し、人並み外れの退廃的な私生活を送り、最後に三十八歳の若さで命を絶った。『斜陽』が発表された日本の敗戦は、明治以来近代主義の理念を掲げ、長らく勧めてきた日本の近代化の破局であった。とくに昭和の敗戦にともなう社会の急激な変革期においては、社会の経済、政治、文化など各方面での力関係の揺れが生じ、価値観の変化や社会的秩序の再編成が行われた。戦後のいわゆる民主と自由は、作者の太宰治に違和感しか与えなかったのである。「人々が民主主義や共産主義を唱えて騒ぎ立てていたとき、太宰治はそれを単に戦前からの表層だけの変化であり、『時局便乗』に過ぎず、実質は何も変わっていないとみなしていたのである」[1]。そのような時代にこの小説『斜陽』は発表された。戦争中の太宰治について、奥野健男は次のように述べている。 「文学年表などによって調べてもわかるように、日本の文学全体の傾向として、太平洋戦争中は目立って作品が少くなり、また芸術として自立し得るすぐれた作品はほとんど影をひそめている。戦争下の三年半は日本の文学が壊滅し停止してしまった空白の期間とさえ言うことができる。ところが太宰治は、その三年半の間に、生涯の作品の三分の一にあたる分量の仕事をしている。しかも芸術的に充実度の高い、傑作をいくつも書いている。太宰にとって戦争期は、わき目もふらず自己の芸術的完成に専念できた猶予の期間であり、豊饒の時であったのだ。日本にこういう作家がいたということは、文学史上特筆されてよい事実である」[2]。 小説『斜陽』は「斜陽族」という言葉を一時の流行語になさせた。敗戦後日本において価値観の転倒に戸惑う人々に強い共鳴を呼んだ反響の大きい作品である。

1.先行研究

『斜陽』は発表されてから文壇での評価が非常に高く、奥野健男は「太宰文学の特質である「下降指向」の集大成として、滅びの物語の形式美を備えた『斜陽』の魅力に、僕は今も抗することができないでいます」[3]と褒めていた。また「充分に使いなれた主題、技法によって築きあげられた最高峰」[4]と賞賛し、神西清は「稀にみる立派な形式をそなえた、コクのある作品」[5]と絶賛した。奥野健男によると太宰治の生活面には「たえず自己を破壊し、自己の欠如感覚を決してごまかさず、かえって深化させていく」という「下降指向」があり、これは「自己の欠如感覚を立身出世などにより埋めようとする上昇志向の定型に対する反逆の倫理」[6]をもった生き方である。しかしながら、こういう実生活において下降への道を貫いた太宰治は文学創作の道において、「上昇指向」を選んだ。この小説『斜陽』も「上昇指向」を選んだ小説に属している。渡部芳紀の見方によると太宰文学の作風の変遷をたどる場合、前期、中期、後期の三つの時期に分けるのがよく認められている。すなわち、「昭和八年から昭和十二年までを前期、一年半近い沈黙の後、新しい作風を示し始めた昭和十三年秋から、昭和二十年までを中期、戦後から昭和二十三年までを後期とする。後期は戦後の三年間で、その初めは、新しい世界到来への明るい希望を持っていたが、その後、戦後世界の混乱に絶望し、世俗に対して必死の抵抗と批判を試みた時期である」[7]。そうした上に、戦後後期の『斜陽』は作られた。『斜陽』で没落してゆくこの貴族一家には三つのタイプがあったと長谷川泉は述べている。「貴族的なものを最後まで保持して諦念の中に生を終える母がその一つである。物質的、精神的な制約によって他律的に貴族的なものを脱却することを余儀なくされながら、残存する貴族的なものの基盤の上に旧道徳に挑戦する革命を遂行するかず子がその一つである。また、貴族という自身の影法師からは離れたくて狂い遊び、すさんだ生活を追求しながら、しかも遂に自らの嫌悪する貴族から脱却することができずに敗北して自ら生を絶つ直治がその一つである」[8]。東郷克美は『鼎談―昭和 13 年~20 年の太宰治をどう読むか』では「〈死に傾斜して行ってしまう男に対して生き残る女性〉という形は太宰の作品の中でよく見られる」[9]と述べていた。『斜陽』もそのような作品である。『斜陽』での男性、直治、上原はデカダンスの生活をしていて滅びていく。一方、女性かず子は強く生き抜いていく。柴田勝二は「『斜陽』の主要な登場人物たちは没落貴族の家柄の人間として設定される」[10]と論述した。片山晴夫は「直治は健康な批評精神を持った「不良」青年として『斜陽』に登場してきて、戦後の日本と日本人のあり方を痛烈に批判しているのである」[11]と論述していた。青木京子も「現存するものへの反発は二つの種類がある。最も美しく滅ぶこと―これがお母さまである、と徹底して革命を志す―これがかず子である」[12]と指摘した。尚且つ村橋春洋の「太宰治『斜陽』の世界」、水谷昭夫の『太宰治「斜陽」のかず子』、東郷克美の『太宰治とチェーホフ―「斜陽」の成立を中心に』は『斜陽』の登場人物について研究もしていた。

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