摘 要
文禄・庆长之役,即16世纪末中日朝三国之间的一场国际战争(1592—1598年),第一次称之为文禄之役,第二次称之为庆长之役,或合称为文禄・庆长之役,朝鲜称其为“壬辰、丁酉卫国战争”,明朝称之为“万历朝鲜之役”又称朝鲜壬辰卫国战争。
这场战争是由于日本统治者丰臣秀吉两次出兵侵略朝鲜,并妄图以朝鲜为跳板进而征服中国、称霸亚洲的扩张主义政策引起的。战争时断时续长达七年之久,最后以中朝联军的胜利而告终。
本文研究这场战争给日本的政治和经济带来的影响,以及日本国内对这场战争的看法,以此尝试探讨日本社会的战争史观形成的原因。
关键词:文禄・庆长之役;日本;影响;战史观
目 次
はじめに 1
1 文禄・慶長の役の過程 2
2 文禄・慶長の役が日本に与えた影響 8
2.1 国民の負担が重くなり、反戦運動が盛んになったこと 8
2.2 文禄・慶長の役の日本政治への影響 10
3 日本国民の戦争に対する見方 15
3.1 日本学術界とネット上の見解 15
3.2 日本のACGのイメージ 18
4 日本人の戦史観の成す原因 21
4.1 日本人の民族心理 21
4.2 日本民族の優越感と劣等感 22
4.3 日本の民族の性格中の「恥文化」 24
おわりに 27
参考文献 28
謝 辞 29
はじめに
文禄・慶長の役という戦争は四百年あまりの前に朝鮮半島で行われた国際的戦争であり、中国、日本、朝鮮三国の間で発生した大きな衝突ともされている。また、「萬曆朝鮮之役」と呼ばれている。この戦争は七年間続いて最後日本軍の敗北に終わった。今の学界でこの戦争についての研究は盛んに行われている。その中で研究者は戦争の原因、経過及び結果などの視角に着眼し、大量の研究を進めて数多く優秀な研究成果が出現した。しかしながら、文禄・慶長の役に相関する論文の数は膨大であるけれども、その中の多くの論文は戦争の発生原因、戦争が中日朝三国に与えた影響あるいは戦争の始末に対する説明にとどまる。一部分の論文は戦争前後の在日中国人の状況、戦争が文化交流に与えた影響などを分析した。だが、日本人がこの戦争に対する考えあるいは日本人のこのような戦争観の形成についての研究はまだ手薄のようである。
本稿は文禄・慶長の役(萬曆朝鮮之役)の関係文献の全面的な研究を通じて、従来の研究成果を踏まえながら、先輩の見解と研究方法を整理し、総括することによってこの前の研究成果を深く理解しようと思っている。さらに、日本人がこの戦争に対する考えを探究し、闡明してみたい。そして日本人が戦争それと歴史に対する態度を究明することによって中日両国の複雑で密接な歴史関係の研究に幾つか参考になれるかもしれない。我が国は中日の関係を適切に扱い、中日友好を促進することにすこしでも助けになると思っている。
1 文禄・慶長の役の過程
日本の太閤下[1]である豊臣秀吉が1588年日本の国内統一を終えた後、日本国内の大名は土地支配権の弱化に対する不満を鎮めるために、この戦争を利用した。1591年5月、秀吉はもっと多くの土地を獲得するために朝鮮出兵という決定を決めた。彼は万暦19年(1591年)6月秀吉命により、宗義智が釜山を訪れ、「日本は大明と国交を通じたい。もし朝鮮がこの事のために(明に)奏聞してくれるならとても幸いであるが、もしそうでなければ、両国は平和の気運を失うことになるだろう。そうなれば一大事です。だから(自分はここに)来て告げるのです」と語った。義智は朝鮮に伝えるべき明征服の先導命令を、明への道を貸すようにと偽りの要請をした。これはいわゆる假途入明ということである。しかしこれも実現できなかった。朝鮮は建国以来、明の冊封国として、この要求を断ったのは当然である。そして、当時の朝鮮国王の李昖は文化を重んじて軍事を疎かにしていたゆえに、軍隊組織が緩み、兵士もほとんど訓練されていなかった。その上、軍事装備も貧弱である。つまり、朝鮮国はほとんど無防備、無警戒に近い状態に陥れた。
日本人の真面目さにはいつも人々が感心している。万暦19年(1591年)、朝鮮との交渉決裂を聞いた秀吉は、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、九州の大名に命じて侵攻軍の基地と見なされた名護屋で多くの糧秣が用意してあったのである。また、『松浦古事記』によると、当時合計30万7985人の兵士で陣立てされた。豊臣秀吉にとって、すべては「弓に矢がつがえてある」という状況になった。数年間力を蓄えていて、いよいよ日本の実力を発揮する機会を迎えた。1592年4月13日、豊臣秀吉の命令により、「朝鮮に明への道を借りる」(假途入明)という名目で小西行長と加藤清正は10万あまりの大軍を朝鮮半島へ送った。
表1 文禄の之労働日本軍の戦闘の序列[2]
军団 | 指挥官 | 部隊の兵士 |
第一军 | 小西行長 | 18700人 |
第二军 | 加藤清正 | 22800人 |
第三军 | 黑田長政 | 11000人 |
第四军 | 島津義弘 | 14000人 |
第五军 | 福島正則 | 25000人 |
第六军 | 小早川隆景 | 15700人 |
第七军 | 毛利輝元 | 30000人 |
第八军 | 宇喜多秀家(統帥) | 10000人 |
第九军 | 羽柴秀胜 | 11500人 |
1592年4月12日小西行長が率いる一番隊の1万8700人が釜山浦に上陸した。上陸した後、一番隊・小西軍は最後通牒を朝鮮側に渡すが、返事はなかった。翌13日、釜山城を攻撃した釜山鎮の戦いが始まった。19日後の1952年5月2日(当時の暦)日本軍隊は漢城に入った[3]。従って、朝鮮国王は首都漢城を放棄して平壌に移った。1592年5月29日、二番隊・加藤清正らが開城を制圧した。6月16日、日本軍の一番隊が平壌を占領し、朝鮮国王は仕方なくて鴨緑江方面へ逃げるしかなかった。
その後、小西行長が率いる一番隊が北上し続けた。黒田長政率いる三番隊が一番隊と合流し、平壌を目指して進軍した。1592年6月15日、一番隊・小西行長らが平壌を制圧するようになった。この厳しい状況に直面していた朝鮮側では各地の有力者は自発的に義軍を編成して日本軍の物資の輸送路に障害を加えていた。しかし、朝鮮軍事の緩む状況はきわめて深刻であり、なかなか退勢を反転することができなかった。ただ一ヶ月のうちに三都[4]と八道[5]を失ってしまった。中朝の国境へ亡命して窮地に陥った朝鮮国王は宗主国の明朝に援助を求めた。
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