夏目漱石晚年与汉文学毕业论文_日语毕业论文

夏目漱石晚年与汉文学毕业论文

2021-04-06更新

摘 要

夏目漱石是日本近代杰出的文学家,他在小说,散文,评论,俳句等方面都取得了非常大的成就。但是如果放眼于他所写的汉诗,我们会被他的作品的艺术魅力所深深地吸引。同样的夏目漱石被认为日本近代汉文学史上汉诗方面的重要代表。他一生创作了大约200首汉诗,我想这是因为他从小就受到了中国古代汉文学的巨大的影响。

作为有时代责任感的社会家,夏目漱石从时代的方面来发展日本近代文学。他是日本近代文学发展的提倡者,是反自然主义文学的发起人,是日本近代杰出的批判写实主义作家,这种反映社会现实和人类问题的文学理念对日本当时的文坛带来了巨大的影响。作为作家,他的作品的艺术性,独特性,思想性被读者所喜爱。他的性格和作品对现在社会仍有指导意义。在夏目漱石的影响下,出现了许多跟随他流派的作家,比如安部能成,芥川龙之介,久米正勇等,他引领了当时的日本的文坛。他可以说是日本近现代批判写实主义的创立者。他为日本近现代文学的创立建立了功勋。夏目漱石的文学成果不仅是日本文学交流的珍品, 而且也应该是世界文学宝库中的一颗明珠。

关键词:夏目漱石;汉诗;汉文化;中日交流

目  次

はじめに 1

1 夏目漱石と漢詩作品 3

1.1 夏目漱石の漢文化知識と学習経験 3

1.2 漢詩の分類と夏目漱石の晩年思想 4

2 中国思想からの影響 6

2.1 典拠の借用 6

2.2 儒学の入世思想 8

2.3 道家思想 10

3 夏目漱石の漢詩が日本に対する影響 12

3.1 日本社会に対する影響 12

3.2 日本文学界に対する影響 13

おわりに 16

参考文献 17

謝  辞 18

はじめに

日本の近代傑出文学者の夏目漱石は小説、散文、評論、徘文面において全世界の注目を集める業績を得た。彼の書いた漢詩を見て、またその中の芸術魅力に深く感動される。夏目漱石が日本近代漢詩人の重要な代表だと思われ、その一生におよそ200首の漢詩を創作し、中国古代文学の影響を受けている。彼は幼いごろから中国古代文学の影響を受けてから、儒家思想と道家思想などに関わらずすべて彼の漢詩創作の中で徹底的に詳しく体現られる。例えば封家搴

はその書いた文章で儒家の入世思想が夏目漱石に対する大くな影響を持つと思っている。儒家は人生の価格を肯定していて、積極的に入世を提唱している。夏目漱石は儒家思想を学ぶことをとおして、理想的な渇望と追求を実現した。これは夏目漱石がの一貫した信念である。この思想は彼の晩年までに発展していた。同時にこの信念は彼の漢詩作品の中で繰り返し見られる。明治時期の修善寺療養期で、彼は療養する静かな生活に伴っていて、以前のような宗教思想は深まった。また例えば北京師範大学の王成はその書いた文章で夏目漱石の漢詩は大部分が感情があらわになるので、漢詩は彼の晩年の真実な気持ちを記録したと思える。漢詩の創作は彼の精神を回復する方法になる。このような方法を通して情操を育むことと、人格の修養を積むことと、精神の上で満足を獲得できる。さらに漢詩は文章の表現力を強め、文章の理解空間を豊かにすることができる。夏目漱石は漢詩が大好きなことから、回想録の中で、漢詩の創作経過を詳しく述べた。だから、王成は夏目漱石の漢詩の中で繰り返し現れる言葉「清閑」と「風流」が中国の伝統文化と日本美学の結合だと思っている。でも私は夏目漱石の漢詩作品についての研究資料を通して、彼の漢詩が儒家の入世思想と禅文化の影響を受けるだけではなくて、まだ中国の典拠の影響を受けると思っている。漢詩の中で彼が大量の典拠を引用した、私は本文の中で例を挙げて説明する。このほか、彼は道家思想の影響を受けると思っている。夏目漱石の漢詩を通して、夏目漱石と中国の漢文化の関連を詳しく理解できる。同時に夏目漱石の漢詩が日本に対する影響を探究できる。

1 夏目漱石と漢詩作品

1.1 夏目漱石の漢文化知識と学習経験

日本の近代傑出文学者の夏目漱石は小説、散文、評論、徘文面において全世界の注目を集める業績を得た。彼が書いた漢詩を見て、またその中の芸術魅力に深く感動される。夏目漱石が日本近代漢詩人の重要な代表だと思われ、その一生におよそ200首の漢詩を創作し、中国古代文学の影響を受ける。幼いごろから中国古代文学の影響を受けてから、西洋文化の導入時代までの現実に直面する時、儒家の「経世済民」でも、仏陀の「隠遁出世」でも、彼の漢詩創作の中で徹底的に詳しく体現られる。

昔から、日本は漢唐文化の影響で、漢詩は王朝文化の正統的な文芸形式になった。明治時代まで、漢詩はまた貴族社会の文芸形式である。夏目漱石は漢詩がすでに日本人精神生活の一部分になることを十分に意識し、漢詩が自分の気持ちを表す文芸形式だと思う。夏目漱石は明治近代化過程に伴って成長した知識人で、新型学校に入り、洋式教育を受けたが、15歳の時に漢学が好きで、東京府立第一中学から退学して漢学家三島中州が創立する私塾二松学寮に入って漢文学を学んだことがある。私塾の中で、彼は『日本外史』『18史略』『小学校』『蒙求』『文章規範』『唐詩集』『孟子』『史記』『論語』『唐宋八大家』と『漢本』などがある。彼は唐宋詩文が好きで、特に陶淵明の詩が好きである。この時期の学習のおかげで、彼は『木屑録』と『文学論』の中から文学理念を獲得した。明治時代に、出版業の繁栄が雨後のタケノコのように読者の目の前に出てきた。明治20年代は夏目漱石の青年時代で、東京大学に彼は親友の正岡子規に出会った。彼らは漢詩流行の影響で、詩に関する話題は彼らが交流する主な内容になった。『七草集』と『木屑録』は彼らの証拠だといえる。そして、修善寺の療養はまた夏目漱石人生の転換点である。修善寺の病気によって、夏目漱石が漢詩創作習慣を回復する客観的な要素である。この時期から1916年11月20日まで、漢詩創作は彼の文学活動の重要な部分になった。特に彼が亡くなる前の2ヶ月の間に、毎日に中断せずに漢詩を創作し、漢詩は彼の晩年の真実な過程を記録した。晩年の夏目漱石は思想において、絶対的な平気境界を追求している。道徳に自らの改善過程を努力し、以前の「自己本位」の思想を諦めて明確に「則天去私」というスローガンを提出した。

1.2 漢詩の分類と夏目漱石の晩年思想

夏目漱石が大正初年に創作した大部分の漢詩は物質を感嘆する詩句である。その中では、水墨畫画賛の詠竹詩はその代表作品である。大正元年から大正5年の漢詩も竹詩に関する詩句がある。竹、蘭、菊、梅は中国伝統文人画の中で「4君子」と呼ばれる。この四種類の植物は主題として文化人があこがれる「君子」の品性と徳性を備える。竹の寓意について、竹は寒い冬にも葉を落とさず青々としている上、曲がらずまっすぐな性質を持っている。この時期の竹に関する詩句は夏目漱石が君子の精神境界にあこがれてこれを目標にすることを表した。夏目漱石の晩年漢詩は3つの段階にわける。第1段階は明治時期の修善寺療養期で、この時期にいろいろな漢詩作品があり、おもに病気の気持ちを記録した。第2段階に、40首の漢詩があり、おもに物質を通じて気持ちを述べた詩である。第3段階は長編小説『明暗』の連載時期である。この時期の漢詩はおもに哲理詩で、詩の中では宇宙と人生に対して思考があふれている。夏目漱石の詩体は5言律詩、7言律詩、5言絶句、7言絶句があるほか、5言排律、7言排律がある。晩年の夏目漱石は「即天去私」について思想を提出して、これは独断の政体と社会の不満である。長編『明暗』は世間の人心の深い所の利己主義を目指して、彼らを自由で明るくて理知がある境界に持って入るために彼らに反省するように促する。しかし、このような西方の人道主義の主張と東方禅宗教の思想は近代腐敗していた日本資本主義の社会に対してすべて何の足しにもならなくて、だから彼は前途の見通しがつかないことを感じた。そのために彼の作品の中で、いつもひとつの孤独で、不合理な社会を憎んでいる絶望のイメージがあって、これも晩年の夏目漱石が悲観的な世の中が嫌になってと宗教の瞑想する文学表現することである。

2 中国思想からの影響

2.1 典拠の借用

夏目漱石の漢詩中で中国古代典故を使用する情況が多い。典故の使用とは、修辞方法の典拠使用で、中国語ではまた「用事」と呼ばれ、詩詞文章創作の中でよく使われる。『文心雕竜』の記載によると、「据事以類義,援古以証今」と書いている。夏目漱石の漢詩からみれば、すなわち中国の歴史物語、伝記あるいは祖先の素晴らしい文章を自分の文章の中で引用し、それによって曖昧に詩人の感想を表現し、古今貫通、お互いに引き立て合う効果を果たす。例えば、「料得洛阳才子伴,錦箋應写断腸詞」[1](別后憶京中諸友、1889)、その中では、洛陽才知は中国の漢時代の賈誼を指し、彼が洛陽人で、幼い頃から才能があるので、この詩句がある。そして、「丙申五月,恕卿所居庭前生灵芝,恕卿因征余詩。余辞不以文,恕卿不听,賦以為贈。恕卿者片領氏,余僚友也」[2]中では、「恕卿三顧出,公退笑顔开」という詩句がある。大部分の人は「三顧」という典故がよく知っている。つまり、漢末の劉備が三回に隆中に行って諸葛孔明を訪ねていることである。簡単に三顧の礼という歴史事件を紹介した。夏目漱石が同僚に三回に詩を作ることに招かれているので、歴史の「三回の礼」の典故を思い出し、これを通じて自分のしょうがない状況を表した。このような情況は珍しくなく、1916年(大正)8月20日に創作された無題詩の中で、「熏犹臭里求何物,蝴蝶梦中寄此生」[3]という詩句がある。同年9月2日の「白首南軒帰卧日,青山北斗遠征時。先生不解降龍術,閉戸空写間适詩」[4]、9月4日の無題詩「只為桃紅訂旧好,莫令李白醉長安」、10月8日の「休向画龍漫点睛,画龍躍処妖云横」[5]などはすべて中国庄生夢蝶(『庄子・斉物議』)、蘇東坡南軒読書(南軒は蘇東坡が本を読むところで、それを名号になる場合がある)桃赤李白(『山閣聞笛』)と画竜点睛(唐・張彦遠『歴代名画張僧繇』)の典故を引用した。その中、「桃赤李白」の成語は唐代羊士諤の詩『山閣聞笛』の「李白桃紅満城郭,馬融間卧望京師。」から起源である。宋時代汪莘の詞『卜算子』は「李白桃紅未吐時,好个春消息。」として引用したことがある。それは春の万物が蘇り、花が錦の如しにきらきらと美しい光景を述べた。「借問酒家何処有,牧童遥指杏花村」(唐·杜牧《清明》)と「借問梅花何処落?風吹一夜満关山」(唐·高适《塞上听吹笛》)上述の分析から見れば、これらはすべていくつかの歴史事実と人物物語を変化して運用することである。『夏目漱石生前書画集』の中で、第四集の中で1916年の春に創作した『題自画』では、「唐詩読罷倚欄杆,午院沉沉緑意寒。借問春風何処有,石前幽竹石月栏。」[6]。この最後の詩句は中国「借问酒家何处有,牧童遥指杏花村」、「借问梅花何处落?风吹一夜满关山」(唐・高適『塞上听吹笛』)という詩句を引用した。そして、古典運用の中では王維の詩句を使ったことがある。その「云起処」は王維の詩の「水穷处」と「云起时」を合併して「云起処」になる。その後の「古浮图」は王維の詩文作品から起源である。王維の「给事中窦绍为亡弟故驸马都尉于孝义寺浮图画〈西方阿弥陀变〉赞(并序)』は彼が一生に念仏参禅したことである。「浮图」は仏教建物を指し、それから仏教の高塔という意味である。王維は竇紹が亡くなった弟のために孝義寺で詩句を創作することを褒める。それで、このような挙動から、王維がこのことに対して提唱態度が分かった。夏目漱石は王維のこの作品を読む時に、その超然洒落を羨望するとともに、仏教に対して尊敬の気持ちを表し、甚だしきに至っては目の前に当時代の図画が現れるかもしれない。夏目漱石の漢詩の中で中国古代の典故を活用することが多い。つまり典故の使用は修辞手法の中で典を使って、詩詞文章の創作中で普遍的なことである。だから、上述からこれらは夏目漱石が歴史の事実と人物のストーリに対して引用して異文化とを融合した。

2.2 儒学の入世思想

夏目漱石の漢詩は確かにこの思想を表し、自然、芸術、人生を味わう同時に、自分の性格を貫いている。芸術の方法を通じて、自由に自分の人生哲学を述べる。彼は小説『疾風』の中で、主人公に白井道を通じて、明確に「すべての理想は自分の魂で、必ず内心に出なければならない」と提出した。夏目漱石はこれを「自己中心」という。正にこの「自己中心」に基づいて、彼の漢詩は我々に真実に彼の複雑な世界観、人生思考と多彩な思想感情を表した。

「吾心若有苦,相之遂難明。

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